荒波を越え、私に吹く新生の風第2話
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踵を返してオフィスを出た私を、修が追いかけてきた。珍しく家まで送るという。
ハンドルを握る彼は、気まずい空気を払拭するように口を開いた。
「寧々、あの子に悪気はなかったんだ。ただの悪戯心だよ。いちいち目くじらを立てなくても、お前が大人になって譲ってやれば丸く収まるだろう?」
まただ、と思った。
昔、私がピアノを弾いていると、決まって依莉は邪魔をしに来た。めちゃくちゃに鍵盤を叩く彼女と私が喧嘩になると、修はいつも「依莉は子供だから」と言い訳し、結局私をピアノから引き剥がすのだ。
私はシートに身を沈め、目を閉じた。もう反論する気力さえ湧かない。
マンションの下へ着いた頃、ふと明日のことが気になり、私は彼に声をかけた。
「兄さん。明日のこと、お父さんと忘れないでね……」
「わかってるよ」
修は私の言葉を遮り、乱れた襟元を直してくれながら頷いた。
「もちろん覚えてるさ。ちゃんと準備はしてあるから、お前は安心して休養してくれ」
翌朝、私は霧の立ち込める霊園へと足を運んだ。
だが、墓前に立った瞬間、抱えていた花束が手から滑り落ちた。
母の眠る墓石が、見るも無惨に汚されていたからだ。鮮血を思わせる真っ赤なペンキが、冷たい石の表面にぶちまけられていた。
信じられない光景に、私は我を忘れて駆け寄った。袖口で必死にペンキを拭い取ろうとするけれど、乾いた塗料はこびりついて離れない。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。
依莉からだ。添付されていたのは一本の動画だった。
画面の中は、墓地とは対照的な、光溢れるリビングルームだった。
父が依莉の肩を愛おしそうに抱いている。
修が笑顔でケーキにナイフを入れている。
そして、私を裏切った元婚約者の周防聖(すおう ひじり)までもが、楽しげに拍手を送っていた。
テーブルの中央に鎮座しているのは――小さなサボテンの鉢植えだ。
「私の可愛いサボテンちゃん、一歳のお誕生日おめでとう!パパ、お兄ちゃん、聖さんも、ありがとう!」
依莉の甘ったるい声が、墓地の静寂を切り裂く。
頭を鈍器で殴られたような衝撃に、私はその場に立ち尽くした。
私はペンキの汚れもそのままに、実家へと取って返した。
リビングに踏み込むと、父が不機嫌そうに腕時計を指差した。
「やっと来たか。家族揃って依莉のサボテンの誕生日を祝ってやろうと言っているのに、お前待ちだったんだぞ」
「……私を、待っていた?」
私は掠れた声で父を睨み据えた。
「私がそのサボテンに向かって、笑顔で『お誕生日おめでとう』とでも言うと思ったの?」
私の言葉に、父の表情が険しくなる。
「なんだその言い草は。せっかくのめでたい席に水を差すような真似はやめろ。まるで葬式みたいに辛気臭い顔をしやがって」
父は吐き捨てるように続けた。
「母親が死んで何年経つと思ってるんだ。死んだ人間より、今生きている人間が楽しく過ごすことのほうが大事だろう。お前はどうしてそう陰気なんだ」
「……葬式みたい、ですって?」
父の言葉に、私はわなわなと唇を震わせた。
「今日は、お母さんの命日よ。まさか、忘れたの?」
悲鳴にも似た私の声が響くと、部屋の空気が凍りついた。
ケーキを皿に取り分けていた修の手が、空中で止まる。
聖は一瞬目を見開き、気まずそうに父へと視線を逃がした。
ただ一人、依莉だけが悪びれもせず、無邪気なふりで目を瞬かせた。
「あら、ごめんなさいお姉様。私、すっかり忘れてて……
……でも、あの方はお亡くなりになって随分経ちますし、今生きている私たちのほうが大切なのではありませんか?」
その言葉に、父は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「依莉の言う通りだ。死んだ者は戻らない。私たちは前を向いて生きるべきだ」
父の顔を見つめながら、私の唇から乾いた笑いが漏れた。
笑って、笑って、やがて視界が涙で滲んでいく。
ああ、そうか。
修が言った「準備はできている」というのは、母の法要のことなんかじゃなかった。
この、愛人の娘が飼っているサボテンの、馬鹿げた誕生日会の準備だったのだ。
母の命日に、彼らは母のことなど記憶の彼方に追いやり、一鉢の植物を囲んで祝杯をあげている。
墓参りに行くどころか、この期に及んで死者を冒涜する言葉まで吐いて。
夫婦の情も、親子の情も、この家では愛人の娘の前には塵芥同然だったのだ。
依莉は聖の腕に絡みつき、挑発的な視線を私に向けた。
「お姉様、ケーキはいかがですか?そういえばお姉様、ここ数年お誕生日会なんてなさっていませんでしたものねぇ……」
――パァン!
乾いた音が、リビングの空気を切り裂いた。
私が振り下ろした平手打ちが、彼女の頬を強かに弾いたのだ。
場が水を打ったように静まり返る。
彼女がこの家に来てからというもの、私の誕生日はないがしろにされ続けてきた。
ケーキはおろか、たった一言の「おめでとう」すらなく、父と修は依莉の誕生日だけを盛大に祝い続けた。いつしか私は、この家の中で透明人間のような存在になっていた。
母が亡くなった後、叔父が引き取ると言ってくれたのを断り、私は頑なにこの家に留まり続けた。母の面影が残るこの場所を、守りたかったからだ。
何度も自分の気持ちを押し殺し、譲歩を重ねれば、いつかまた家族に戻れると信じて。
けれど、それは幻想だった。家はとうに変質していたのだ。
今、目の前にいる「親族」と呼ぶべき人々に感じるのは、吐き気を催すほどの嫌悪感だけ。
「寧々!貴様、気が狂ったか!」
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