荒波を越え、私に吹く新生の風第1話
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如月家で、長きにわたり冷遇され続けてきた如月寧々(きさらぎ ねね)。
愛人の娘である異母妹・如月依莉(きさらぎ えり)の出現により、彼女は自分の部屋をはじめ、積み上げてきた名誉、そして婚約者さえも奪われてしまう。
何より寧々を絶望の淵に追いやったのは、実の父と兄による依莉への理不尽な偏愛と、自分に向けられる冷酷な仕打ちの数々だった。
「もう、この家には何の未練もない」
如月家との決別を誓った彼女は、亡き母の旧姓である「白川」を名乗り、叔父の支援を受けて再びデザインの世界へと舞い戻る。
圧倒的な実力を武器に、かつて自分を蔑ろにした如月家や元婚約者の周防家を実力でねじ伏せ、彼らに相応の代償を支払わせていく。
そしてついに国際デザインコンテストで頂点に立った寧々は、誰にも邪魔されない、輝かしい第二の人生を歩み始める――
* * *
愛人の娘が、この家に引き取られた日のことだ。
父の後ろにおどおどと隠れる彼女。けれど父は、何事もないかのように私へ笑いかけた。
「寧々。お前が一番大切な娘であることに変わりはないんだよ」
兄も私・如月寧々(きさらぎ ねね)の頭を撫でて、優しく言った。
「俺の妹は、永遠にお前ひとりだけだ」
けれど、その言葉はただの呪いだった。
私の部屋も、愛用していたピアノも、三年間徹夜を重ねてやっと勝ち取ったデザイン賞の栄誉さえも、気づけばすべて彼女のものになっていた。
そして決定的だったのは、あの夜。
如月依莉(きさらぎ えり)は私がデザインしたドレスを身に纏い、私の婚約者の腕に絡みつきながら、婚約披露宴の主役として笑っていた。
全身の血が凍りつくようだった。
席を立とうとした私の両肩を、父と兄が左右から死に物狂いで押さえつける。
「寧々、わきまえなさい。大人になるんだ」
父の低い声が、ごうごうと耳鳴りのように響いた。
その晩、私は浴室で手首を切った。
赤く染まっていくバスタブの水面を眺めながら、意識を手放した。
次に目を覚ました時、病室にいた父はひどく渋い顔をしていた。てっきり心配してくれるのだと思った私の期待は、最初の一言で打ち砕かれた。
「依莉は心臓が弱いんだ。血など見せられたら発作を起こしかねない。こんな悪ふざけで彼女を脅すのは、もうやめなさい。いいかい?」
兄も深いため息をつく。
「あの子は妹なんだぞ。お前が姉として譲ってやれ。不満があるなら、俺に言えばいいだろう」
その瞬間、憑き物が落ちたように頭が冷えた。
ああ、そうか。
この家族はもう、私にはいらない。
……
退院の日が決まると、私は長年疎遠になっていた番号へ電話をかけた。
「……叔父さん。私、白川の家に戻りたいの」
受話器の向こうで短い沈黙があり、やがて震える声が響いた。
「寧々……!やっと、帰ってくる気になったか」
通話を終えると、父が迎えにやってきた。
父は自らハンドルを握り、車内では甲斐甲斐しく私の体調を気遣った。まるで良き父親そのものだった。
けれど車が停まったのは自宅ではなく、街外れのマンションの前だった。
「寧々、ここは静かだし、内装もお前の好きなテイストにしてある。療養するには一番いい環境だろう」
父は慈愛に満ちた表情で、私の頭を撫でる。
この人は知らないのだ。入院中、彼と依莉が交わしていた内緒話を、私が聞いてしまったことを。
「パパ、私怖いの。お姉様、またあんなことして私をいじめるかと思うと……」
「大丈夫だ、可愛い依莉。あいつは外に住まわせるからね。そうすれば、お前も怯えずに済むだろう?」
渡された鍵を受け取る指先は、氷のように冷たかった。
その時、父のスマートフォンがメッセージの着信を告げる。父は画面を確認するなり、そそくさとその場を立ち去っていった。
扉を開けた瞬間、鼻をつく異臭に思わず顔をしかめた。リビングには私の荷物が乱雑に積み上げられている。
埃っぽい空気に喉が刺激され、乾いた咳が二つ、三つと漏れた。
これが「療養に最適な環境」だなんて、笑えない冗談だ。
荷解きの手を止めたのは、母の写真が出てきたからだ。
フレームの中の母は、穏やかに微笑んでいる。
写真をそっと胸に抱き寄せると、まるで心臓を直接抉られたような痛みが走った。涙で視界が滲む。
明日は、母が逝って七年目の命日だ。
落ちた涙がスマホの画面を濡らした時、通知が光った。親友からのメッセージだ。
【寧々!法律事務所に勤めてる子から聞いたんだけど、お父さんが遺言書を書き換えたらしいよ!資産は全部、修さんと依莉のものだって……寧々の取り分はゼロよ!】
……意外ではなかった。
ふと下駄箱の上に置かれた書類に目をやると、不動産売買契約書の名義欄には「如月依莉」の文字が躍っている。
私は冷たい壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
まるで七年前の悪夢の再来だ。
家に連れられてきたばかりの依莉が「お姉様のお部屋、素敵」と呟いたあの日。父は即座に言った。「二、三日の間だけ貸してやりなさい」と。
その「二、三日」は、結局七年もの間続いている。
きちんと空調は効いているはずなのに、骨の髄から凍えるような寒気が引かない。
この家も、家族も、もう私の場所ではないのだ。今の私に残された拠り所は、自分で立ち上げたファッションブランドのオフィスだけだった。
是非もないままオフィスへ向かい、ドアを押し開けた私は、その光景に足が止まった。
私のデスクに、我が物顔で依莉が座っていたのだ。
その手には、まだ誰にも見せていない新作のデザイン画が握られている。口元には勝ち誇ったような笑み。
そして傍らでは、兄の如月修(きさらぎ しゅう)が依莉のために優しくリンゴを剥いていた。
物音に気づいた修が顔を上げ、私を見る。
「寧々か?まだ顔色が悪いじゃないか。もっと休んでいればいいのに」
目頭が熱い。
修が心配そうに手を伸ばしてくる。肩に触れようとするその指を、私は条件反射で避けてしまった。
修の手が空を切り、彼は呆気にとられたように私を見る。その視線が依莉に向けられていることに気づくと、彼は慌てて弁解を始めた。
「違うんだ、寧々。お前を心配して、依莉に仕事を手伝ってもらおうと――」
私は兄の言葉を無視してデスクへ歩み寄ると、依莉の手から乱暴にデザイン画を引ったくった。
「きゃっ!」
依莉が大袈裟に声を上げて立ち上がる。
その拍子に胸元がはだけ、首元で揺れる緑色の輝きが目に飛び込んできた。
鮮やかな翡翠のネックレス。
――母の形見だ。
三年もの間、どれだけ探しても見つからなかったあのネックレスが、まさか彼女の首にあったなんて。
「そのネックレスを返して!」
思考より先に体が動いた。手を伸ばして掴みかかろうとする。
けれど私の指が届く寸前、修はさっと身を翻し、依莉をその背に隠してしまった。
「寧々!乱暴はやめろ、何をしてるんだ!」
私は遮られた腕を下ろそうともせず、ただ修の背後の翡翠ネックレスを睨みつけた。視界が熱くなる。
「それはお母さんの形見よ!兄さんだって知ってるでしょう?」
私の剣幕に、修の体が強張った。彼は驚いたように依莉を振り返る。
すると彼女は、大粒の涙を目に溜め、震える声で訴え始めた。
「……これ、拾ったんです。お姉様の大切なものでしたのね。知らなかったとはいえ、こんな……」
彼女はか弱い被害者を演じながら、震える手で留め具を外しにかかる。
「すぐにお返ししますから、そんなに怒鳴らないで……」
芝居がかったその態度に吐き気がした。修は眉間に深い皺を刻み、強引に私の腕を引いて出口へと促す。
「もういいだろう、寧々。ネックレスくらい、俺がもっといいのを買ってやるから」
「ふざけないでっ!」
私は力任せに修の手を振り払った。喉が張り裂けそうなほど叫んでいた。
「あれは私のものよ!」
私の激昂に、二人は同時に動きを止めた。
今までどんなに理不尽な目にあっても、言葉を飲み込み、耐え続けてきた「従順な寧々」。そんな私が初めて見せた抵抗だった。
私は彼らが呆気に取られている隙に歩み寄り、依莉の手からネックレスを奪い返した。手のひらに食い込む金具の痛みが、唯一の現実感だった。
「ひどい……」
依莉はわっと泣き崩れ、修の胸に縋りつく。
私は冷たい笑みを浮かべ、非難の色を露わにする兄を見据えた。
「もう結構よ。何もかも譲ってあげる。この会社も、家も、兄さんも。……だけどこのネックレスだけは、絶対に渡さない」
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