真夏の蝉時雨第2話
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家に着くと、涼真は無造作にネクタイを外し、床に放り投げた。
その生地には、女の口紅か赤ワインか……乾いてどす黒く変色した染みがいくつかこびりついている。
私は息を呑んだ。
涼真はその時になってようやく、通話の音声が聞こえないことに気づいたらしい。
キョロキョロとイヤホンを探し始める。
「ここよ」
私が差し出すと、彼は慌ててひったくるように受け取った。条件反射で耳にねじ込もうとして――ふと動きを止め、スマホのスピーカー通話に切り替えた。
「お前に隠すことなんて何もないよ。今、拓也に書類の処理を頼んでたとこなんだ。
仕事の話だからお前にはわかんないだろうけどさ。本当は徹夜して終わらせるつもりだったんだよ。でも『そりゃダメだ、家で夏帆が待ってるからな』ってあいつに言ったんだ」
スピーカー越しに聞こえる拓也の声は、先ほどと変わらず平坦だった。
「そうそう。こいつがどれだけ俺に仕事押し付けてるか、夏帆ちゃんも知らないでしょ?ちょっとキツく言っといてくださいよ」
事前の打ち合わせすら必要ないらしい。二人の見事な掛け合いは、あまりにも完璧だった。
私はこみ上げる涙を必死にこらえ、うつむいた。
悲しいのか、辛いのか、どんな感情なのか自分でもわからない。
ただ、何年もの間ずっと騙され続けてきたことへの、おぞましい吐き気の方が勝っていた。
涼真は、私の顔からすっかり血の気が引いていることなど全く気づいていなかった。
彼はキッチンを覗き込むと、私が冷やしておいた特製のスープをランチジャーに注ぎ、アイランドキッチンの最も目立つ場所に置いた。
会社に持っていって、愛妻弁当を見せびらかすのを忘れないようにするためだ。
「毎日こんなの作ってくれてさ、無理すんなよ」
いつものように、私を喜ばせるための甘い言葉。
さらに彼は、部下たちがどれほど自分の妻を羨ましがっているか、今日なんて2人の女性からLINEを交換したいと言われたけど断ってやったんだ、などと自慢げに語り続けた。
「ごめん、ちょっと疲れちゃったみたい」
ご褒美のキスをねだるように顔を近づけてきた彼を、私は乾いた声で押し返した。
そのまま洗面所に駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出した。
ドアの向こうから、涼真の慌てたような大きな声が聞こえてくる。
笑えてくる。
こんなに長く一緒にいて、私はずっと、とてつもなく巨大な嘘の中にいたのだ。
……その夜、涼真は一睡もしていなかった。
バルコニーに一晩中座り込み、灰皿にはタバコの吸い殻が小山のように積まれていた。
私が目を覚ました時、ダイニングテーブルには所狭しと色とりどりの朝食が並べられていた。
エプロン姿の涼真は、私が起きてきたのを見ると、血走った赤い目をしばたかせた。
「ごめんな、夏帆。俺が悪かった。ちゃんと気遣ってやれなくて」
彼は苦痛に満ちた表情で目を伏せた。
結婚して間もない頃、彼の会社の資金繰りが悪化し、毎日新規開拓で駆け回る日々が続いた。数ヶ月ごとにあちこちへ転勤を繰り返すような生活だった。
3年前にようやく落ち着き、今の場所に引っ越してくることができた。
当初、私は彼と大喧嘩をした。
「どうしてこんな遠くまで来なきゃいけないの。帰省するのに飛行機や新幹線を乗り継いで半日以上もかかるなんて」と不満をぶちまけた。
彼は何も言い返さなかった。
私が感情をぶつけて泣き叫んだ後、彼はただ私の足元にひざまずき、じっと私を見上げていた。
今の彼と同じ目だった。
あの日のように、熱を帯びた眼差し。
あの時、私の心はドロドロに溶かされ、あっさりと彼を許してしまったのだ。
彼は昔からよくわかっている。私が彼を責めきれないことを。
「まだ仕事残ってるんでしょ?会社に行かなくていいの?」
私はいつものように微笑みながら、彼が差し出した牛乳を受け取った。
心の中は、ナイフで切り裂かれたように痛いのに。
この一晩、彼が何を考えていたのか聞いてみたかった。
ボロを出したのではないかと焦り、その埋め合わせのために優しくしているのか。
それとも、本当に私の体を心配しているのか。
涼真は私のことを愛しているようだ。
でも、全然愛していないようでもある。
私の言葉に、彼は一瞬だけ動きを止め、誰にも気づかれないほど小さく安堵の息を吐いた。
そして、クローゼットでネクタイを選ぶとき、新しいものに付け替えた。
昨夜締めていたあのネクタイは、丁寧に折りたたんで自分のポケットに隠すようにしまった。
その一連の動作はとても慎重で、彼の口元には、隠しきれないかすかな笑みが浮かんでいた。
そのまま、彼は足早に仕事へと出かけていった。
毎朝、私にネクタイを締めさせるという、ずっと続けてきた習慣をすっかり忘れて。
……
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