真夏の蝉時雨第1話
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桐山涼真(きりやま りょうま)がどん底の貧乏だった頃。40度近い猛暑のなか、彼は私・安藤夏帆(あんどう かほ)に会うためだけに五、六時間も歩いてやってきた。
焦げつくような日差しのもと、けたたましい蝉時雨が降り注いでいた。
暑さで溶けてしまいそうなほど汗だくの涼真は、両手を膝について荒い息を吐き、その長いまつ毛から汗の雫がぽたぽたと滴り落ちていた。
のちに彼と結ばれ、幾度となく夜通し喧嘩を繰り返すたび、私は決まってあの時の彼の濡れたまつ毛を思い出した。
その記憶があったからこそ、私は未練なく仕事を辞め、見知らぬ土地へ嫁ぎ、心から彼との子供を望んで辛い妊活すら耐えてきたのだ。
――ついさっき、私のワイヤレスイヤホンが偶然、彼のスマホに繋がってしまうまでは。
イヤホン越しに聞こえてきたのは、彼の親友である片倉拓也(かたくら たくや)の嘲笑うような声だった。
「夏帆ちゃんってけっこう純粋だよな。いまだに気付いてないんだろ?
お前があの夜、昔の女を抱いたのは、たまたま店で再会したあいつが、タダでヤレる『安全な女』として向こうから転がり込んできたからだってことにさ」
* * *
今年の夏は、ずいぶんと早く暑さが訪れた。
桐山涼真(きりやま りょうま)と一緒に真夏の蝉時雨を聞いたのは、もう5年も前のことだ。
あの日は、肌を焦がすような猛暑だった。
私・安藤夏帆(あんどう かほ)がアパートの階段を降りると、耳をつんざくような蝉の鳴き声が響いていた。
その日、涼真は熱を出していて、おまけに家族と大喧嘩をした直後だったというのに。
うだるような暑さの中、街を半周するような距離を五、六時間も歩き続けて、ただ私に会うためだけにやって来たのだ。
彼の長いまつ毛から汗の雫がポロポロと転がり落ちて、地面に小さな染みを作った。
日に焼けて真っ赤になった顔。体は火傷しそうなほど熱を帯びていて、私を見つめる瞳も、どうしようもなく熱かった。
――それなのに。
今夜も彼は残業で、日付が変わる頃になってもまだ家に帰ってこない。
私は、くっきりと二本線が浮かび上がった妊娠検査薬を手のひらに握りしめ、自然とこぼれる笑みをどうしても抑えきれずにいた。
彼を迎えに行こう。そう思って外に出た時、耳につけていたワイヤレスイヤホンから、ふいにノイズが聞こえてきた。
ハッとして耳元に触れる。急いで家を出てきたせいで、どうやら無意識に彼のイヤホンを持ってきてしまったらしい。
「涼真、涼真?もう家着いたか?」
突然響いた声に、私は息を呑んだ。
「昔はお前の憧れだったあいつ、堕ちるとこまで堕ちて逆に最高だったろ?お前も相当ヤバいよな。家で溜まりに溜まってたんだろ?」
「もしもし……?」
そう口を開きかけた瞬間、ショックで喉の奥の声がピタリと止まった。
「夏帆ちゃんってけっこう純粋だよな。毎日せっせと精のつく料理作ってくれてるんだろ?
あーあ、お前があの夜、性欲を処理するためにあいつを抱いたなんて、夏帆ちゃんは今でも知らないんだぜ。タダだし病気の心配もないし、向こうから転がり込んできたんだから、ヤッとかない手はないってな」
私は夜道に縫い付けられたように立ち尽くし、耳から外したイヤホンを指先でなぞった。
この声には、嫌というほど聞き覚えがある。
彼の親友、片倉拓也(かたくら たくや)だ。
私が涼真と結ばれたのも、拓也がキューピッド役を買って出てくれたおかげだった。
私たちの結婚式では立会人まで務めてくれた人。
この数年間、私たちが喧嘩をするたびに間に入ってなだめ、涼真のことをこっぴどく叱ってくれたのも、いつも彼だったのに。
心臓が早鐘のように打ち、足元がおぼつかなくなる。
イヤホン越しに聞こえた言葉の数々が、真冬の鋭い氷の破片か、鋭い矢のように、私の体を容赦なく貫いていった。
パニックになり、自分の頭を何度か強く叩いた、その時――
背後から、不意に誰かの腕に包み込まれた。
シャワーを浴びた後の、爽やかなヘアオイルの香りが鼻をくすぐる。
「どうしたの、ぼーっとして」
歩み寄ってきた涼真は片手にスマホを持ち、もう片方の腕で私を抱き寄せると、私の肩にコツンと顎を乗せてきた。
「なんでこんなとこで突っ立ってんの」
彼は私の耳元で小さく笑う。
「もう若くないんだから、若い子みたいに夜更かしすんなって。ほら、おとなしく家に帰ろ」
涼真の手元で、スマホの画面はまだ明るく光っていた。
彼は隠す素振りも見せず、私が見つめているのに気づくと、わざとらしく目の前でスマホを振ってみせた。
「ヤキモチ焼きだなあ。俺は毎日こんなに忙しいんだから、お前以外に連絡とる相手なんて拓也くらいだよ。何を心配してんの?」
画面に表示された拓也の登録名は、親しげに呼び捨てだった。
ふと、思い出す。
私の連絡先は、名前すら登録されず、ただ電話番号が表示されるだけだということを。
いつか彼に尋ねたとき、「夫婦なんだから、いちいち名前なんか入れなくても番号くらい暗記してるよ」と笑っていた。
けれど、彼は私からの電話に一度も出たことがない。いつだって「仕事が忙しい」という理由で。
言葉が見つからず、また重い沈黙が落ちた。
涼真は私の手を引いて家に向かって歩き出し、私の手のひらに握りしめられていたイヤホンに気づいた。
「なにこれ、どうしたの?
ったく……こんなことしてる暇があるなら、ちゃんと休んで体調整えて、早く俺の子供産んでくれよな」
その言葉を聞いた瞬間、私の指先から妊娠検査薬がすり抜け、地面にポトリと落ちた。
涼真は気づいていない。彼は体を入れ替え、私を自分の左側を歩くように促した。
付き合って3年、結婚して5年。彼はいつも私を道の内側にして守るように歩いてくれた。
雨の日は私の方へ傘を傾け、美味しいご飯は最初に一口食べさせてくれて、毎晩必ずおやすみのキスをしてくれた。
彼が私を愛していない兆候なんて、本当に、微塵も感じたことがなかったのに。
パキッ。
間の悪いことに、涼真が一歩踏み出した足が検査薬を踏みつけた。
彼は足元を見下ろすと、不快そうな顔をして、それを道の端へと軽く蹴り飛ばした。
……
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