真夏の蝉時雨第3話
この話は約1651字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
涼真は、私がずっと後ろをつけてきていることなど微塵も気づいていなかった。
彼は今日、いつもと違う車に乗っていた。
普段はなるべく目立たない車種を選んで乗っているくせに、今日に限って限定モデルの派手なスポーツカーを引っ張り出している。
少し離れた路地越しに見つめていると、彼は手に持っていたランチジャーの蓋を開け、私が作ったあの冷製スープを躊躇なく道路脇の排水溝へとドボドボと流し捨てた。
直後、私のスマホが2回震えた。
見ると、綺麗に空になったランチジャーの写真が送られてきている。
【夏帆、今日のスープすごく美味しかったよ。明日も作ってほしいな】
――疲れた。
全身からスーッと力が抜け、私はシートに深く背中を預けて、長いため息を吐いた。
自嘲するような笑いが、自然と口元に浮かぶ。
やがて車は涼真の会社の下に着いた。彼はそこで待っていた拓也と軽く頷き合い、拓也からバラの花束を受け取った。
その花束の包みもアレンジも、涼真が記念日ごとに私に贈ってくれるものと全く同じだった。
その後、涼真の車はUターンし、会社とは全く逆の方向へと走り出した。
その瞬間、私はハッと気づいた。なぜ彼が今日、わざわざ違う車に乗ったのかを。
結婚したばかりの頃、涼真は「こんな幸せ、まるで夢みたいだ。お前がどこにいるか心配でたまらない」と言って、私に1台の車をプレゼントしてくれた。
お互いのスマホにGPSアプリを入れ、いつでも居場所とルートが分かるように設定して。普段、彼が通勤に使っているのはその車だったのだ。
ビジネスの世界で培った狡猾なごまかしのテクニックを、彼はまさか、妻である私に対して使っていたなんて。
私は手を伸ばし、頬を伝う涙を乱暴に拭った。
今日はひどく天気が良くて、眩しい日差しが目に突き刺さって痛い。
涼真の車が停まったのは、ある路地裏のバーだった。
治安が悪くて不衛生だと有名な場所で、彼のような上品ぶった男には似つかわしくない。
だが、彼は慣れた足取りで迷いなく店内へ入り、奥の個室へと消えていった。
それ以上、彼を追いかける気力はもう残っていなかった。
私は道端に立ち尽くし、ぼんやりと店の入り口を眺めていた。
やがて、そこから見覚えのある女の姿が出てくるまでは――
涼真が起業したばかりの頃にいた、大学時代の後輩の女だ。
もう3、4年は顔を見ていなかった。
私たちの婚約パーティーの日、涼真の胸元のブートニアが少し曲がっていたことがあった。
その時、彼女は隣にいた私を堂々と無視して彼の前に立ち、いとも自然な手つきで涼真のブートニアを直してみせたのだ。
もちろん、二人の間にはもう何もないのだと、当時の私は信じて疑わなかった。
付き合い始めた頃、涼真自身から「あいつとは一時期、ちょっといい雰囲気になったことがあった」と正直に打ち明けられていたからだ。
彼が隠さず話してくれたから、私も受け入れることができた。
大人同士なのだから、過去のことははっきりさせておけばそれでいい。
それに、私は彼の会社の株も持っているし、社内には私の耳目となってくれる人たちもいた。二人が怪しいという噂はただの一度も耳にしなかった。
何より、相手は涼真だ。
私が彼を信じない理由なんて、どこにもなかった。
あの日、家に帰った後、私は「あの子をあなたの側から外して」と頼んだ。彼は一瞬の躊躇も見せず、すぐに了承してくれた。
確かに、彼は嘘をついていなかった。
彼は約束通り、彼女を自分の秘書から外した。――ただ、自分のベッドからは外していなかったというだけだ。
拓也のあの下劣な言葉が、一晩中、頭の中で渦巻いていた。
忘れられない。絶対に忘れてはいけない。
私はその足で一番近くの産婦人科に駆け込み、診察を受けた。
お腹の子は、すでに妊娠2ヶ月を迎えていた。あと数日もすれば、エコーで小さな手足がはっきりと見えるようになる頃だ。
我が子を迎える喜びを、これまでに何度思い描いてきたことだろう。
けれど、こんな残酷な形でその日を迎えることになるとは、想像すらしていなかった。
「今日、手術はできますか」
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