椿の咲く日に、私は消えた第2話
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どれくらい眠っていたのだろう。
目を覚ますと、主治医の緒方賢一郎(おがた けんいちろう)が重い表情で私を見ていた。
「これ以上、心に強い負担をかけないようにしてください。手術はうまくいっています。ただ、術後の体はまだとても不安定です。
今日のように感情が大きく揺れると、軽くても吐血や失神を起こします。最悪の場合、命に関わることもあります」
私は天井だけを見つめ、胸の奥にこみ上げるものを必死に押し込めた。
耳元では、颯太からのメッセージ通知が次々と鳴っていた。
けれど、もう読む気力もなかった。
私は家政婦の中田栄子(なかた えいこ)に、代わりに読んでもらった。
栄子は気まずそうに小さく咳払いをしてから、おそるおそる読み上げた。
「椿は今日、少し調子がよくなった。医者にも、俺がそばにいることが一番の薬だと言われた。このまま付き添っていれば、きっとすぐによくなる。椿が少しずつ元気になっていくのを見ていると、本当に嬉しい。
椿は、自分と同じ名前の花が好きなんだ。ここ数日、雪が降っているだろう。すごく喜んでいる」
そこまで読むと、栄子は私の顔色をうかがいながら、颯太をかばうように言った。
「奥様、もう一つございます。颯太様が、西町のいちごケーキがおいしかったので、今度奥様にも買って帰ると……。颯太様は、奥様のことも気にかけていらっしゃるのだと思います」
どのメッセージにも、椿がいた。
私は目を閉じた。涙は止められなかった。
私はいちごアレルギーだ。心臓を患っている今、強いアレルギー反応が出れば、それだけで命取りになりかねない。
だから、いちごはずっと避けてきた。
好きだったのは私ではない。椿だった。
胸の奥が苦しくなり、私は下唇を強く噛んだ。
賢一郎は点滴の処置をしながら言った。
「つらそうですね。鎮痛剤を少し増やしておきます。とにかく、気持ちを乱さないようにしてください」
薬が効き始めると、ようやく頭が少しはっきりしてきた。
私は賢一郎にうなずいた。
「分かりました。もう大丈夫です」
それから私は、弁護士にメッセージを送った。
【離婚協議書を作成してください。颯太と離婚します】
もう、あの人に縋る気持ちはどこにも残っていなかった。
颯太のために泣くのも、胸を痛めるのも、これで最後にする。
それから丸十日、私は颯太からの連絡をすべて無視した。
颯太のことを考えずに過ごすようになると、体は驚くほど早く回復し、賢一郎から退院の許可も下りた。
私は以前、心理カウンセリングルームとして使っていた仕事部屋へ移った。
そして私は、颯太に離婚協議書を送った。
すぐに、颯太から何度も電話がかかってきた。
私はそのたびに切った。
三十分ほどして、颯太が仕事部屋のドアを叩いた。
栄子がずっと私のそばで世話をしてくれていたから、颯太がこんなに早く来たことにも、少しも驚かなかった。
私はドアを開けた。
手術のあと、颯太と顔を合わせるのはこれが初めてだった。
颯太はドアの前で立ち止まった。
私の姿を見た瞬間、焦っていた顔から言葉が消えた。
「どうしてそこまで痩せた。中田は何をしていたんだ」
「私が食べられなかっただけ。食欲がなかったの」
私は淡々と言った。
「ここに来て平気なの? 椿が知ったら、また何をするか分からないでしょう」
颯太は口を開きかけたが、何も言わなかった。
私は背を向け、ソファへ戻る。
ドアを開けて少し話しただけなのに、体から力が抜けていくのが分かった。
もう、立っているだけでもつらい。
颯太がこちらへ手を伸ばす。
頬に触れられる寸前、私は顔をそらした。
「俺は離婚しない」
低く、押し殺したような声だった。
私はソファにもたれたまま、かすれた声で返す。
「好きにすれば。協議で無理なら、調停でも裁判でもするだけだから」
颯太は私の前に片膝をつき、私の手を取った。
「千早、俺と椿は幼なじみなんだ。昔、椿を好きだったことは否定しない。でも今は違う。今の俺にとって、椿は妹みたいな存在なんだ。
七年前、椿は国境なき医師団の一員として海外へ向かった。二年経ったら戻ってきて、俺と結婚する約束だった。なのにある日、突然連絡が取れなくなった。俺は三年間、ずっと探していた。
何度も思ったよ。あのとき俺がもっと早く見つけていれば、椿はあそこまで追い詰められずに済んだんじゃないかって」
颯太はそこで言葉を止めた。
「俺は椿に負い目がある。それは認める。でも、それだけだ。今のあいつを放っておくことはできない。俺がそばにいれば落ち着く。医者にもそう言われた。だから、もう少しだけ分かってくれ、千早」
落ち着いていたはずの心臓が、颯太の声を聞いただけでまた苦しくなった。
目の前がかすんでいく。
颯太は私を抱きしめた。
「俺は離婚しない。絶対に」
強く抱きしめられた途端、胸が詰まり、痛みが一気に増した。
座っていることもできず、私はその場で体を丸めた。
颯太の声が慌てた。
「千早、どうした?」
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