椿の咲く日に、私は消えた第1話
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七年前に死んだはずだった、夫・渡辺颯太(わたなべ そうた)のかつての婚約者、富田椿(とみた つばき)が突然戻ってきた。
私、渡辺千早(わたなべ ちはや)が渡辺家の本宅を訪ねたとき、二人はちょうど結婚式の相談をしているところだった。
椿は颯太の腕に寄り添い、人の輪の向こうにいた私を指さした。
「颯太、あちらの方は?」
颯太は迷いなく答えた。
「式の司会を頼んだ人だ」
私は胸を押さえた。心臓の発作が近いのだと、ぼんやり分かった。
問い詰める暇もなく、私はボディガードにリビングから連れ出された。
部屋の中からは楽しげな笑い声が聞こえてくる。けれど私は手足が冷たくなり、痛みで息をすることさえつらかった。
二時間後、颯太はどこか晴れ晴れとした顔で出てきた。けれど私の様子を見るなり表情を変え、すぐにコートで私を包み込んだ。
「椿は何も覚えていないんだ。ただ、俺が婚約者だったことだけは覚えている。
医者にも言われた。今の椿には、少しの刺激も危ないって。結婚式は本気じゃない。あいつを落ち着かせるために合わせているだけだ。俺が愛しているのは、今も昔もお前だけだ」
私はもう耐えきれず、その場に崩れ落ちた。
颯太は慌てて私を抱き上げ、車へ運んだ。その声は、はっきり震えていた。
「千早、大丈夫だ。怖がるな。適合する心臓はもう用意してある。俺が絶対にお前を助ける。
今すぐ、いちばんいい病院へ連れていく」
けれど私を助手席に乗せた直後、颯太の前に、涙を浮かべた椿が現れた。
「颯太、私を置いていくの?」
その一言で、颯太は決めてしまった。
彼は私の手をほどき、車のドアを閉めた。
それから颯太は、一度も姿を見せなかった。
届いたのは、メッセージだけだった。
【よかった、千早。手術、成功したんだな】
【椿は今、少しの刺激にも耐えられない。三か月だけ、姿を消してくれないか。三か月経ったら、必ずお前のところに戻る。もう二度と離れない】
その約束だけが、やけに鮮やかだった。
けれど颯太は知らなかった。
手術は、成功してなどいなかった。
三か月は長すぎる。
私はもう、そこまで生きられない。
* * *
七年前に死んだはずだった、夫・渡辺颯太(わたなべ そうた)のかつての婚約者、富田椿(とみた つばき)が突然戻ってきた。
私、渡辺千早(わたなべ ちはや)が渡辺家の本宅を訪ねたとき、二人はちょうど結婚式の相談をしているところだった。
椿は颯太の腕に寄り添い、人の輪の向こうにいた私を指さした。
「颯太、あちらの方は?」
颯太は迷いなく答えた。
「式の司会を頼んだ人だ」
私は胸を押さえた。心臓の発作が近いのだと、ぼんやり分かった。
問い詰める暇もなく、私はボディガードにリビングから連れ出された。
部屋の中からは楽しげな笑い声が聞こえてくる。けれど私は手足が冷たくなり、痛みで息をすることさえつらかった。
二時間後、颯太はどこか晴れ晴れとした顔で出てきた。けれど私の様子を見るなり表情を変え、すぐにコートで私を包み込んだ。
「椿は何も覚えていないんだ。ただ、俺が婚約者だったことだけは覚えている。
医者にも言われた。今の椿には、少しの刺激も危ないって。結婚式は本気じゃない。あいつを落ち着かせるために合わせているだけだ。俺が愛しているのは、今も昔もお前だけだ」
私はもう耐えきれず、その場に崩れ落ちた。
颯太は慌てて私を抱き上げ、車へ運んだ。その声は、はっきり震えていた。
「千早、大丈夫だ。怖がるな。適合する心臓はもう用意してある。俺が絶対にお前を助ける。
今すぐ、いちばんいい病院へ連れていく」
けれど私を助手席に乗せた直後、颯太の前に、涙を浮かべた椿が現れた。
「颯太、私を置いていくの?」
その一言で、颯太は決めてしまった。
彼は私の手をほどき、車のドアを閉めた。
それから颯太は、一度も姿を見せなかった。
届いたのは、メッセージだけだった。
【よかった、千早。手術、成功したんだな】
【椿は今、少しの刺激にも耐えられない。三か月だけ、姿を消してくれないか。三か月経ったら、必ずお前のところに戻る。もう二度と離れない】
その約束だけが、やけに鮮やかだった。
けれど颯太は知らなかった。
手術は、成功してなどいなかった。
三か月は長すぎる。
私はもう、そこまで生きられない。
……
颯太は、めったにインスタを更新しない人だった。
その彼の投稿が、私のタイムラインに次々と流れてくるようになった。
颯太と椿は、写真の中で、おしゃれなカフェや雰囲気のある通り、ケーキ屋、ハンドメイド体験工房を楽しそうに巡っていた。
普段は無口で、自分の気持ちなどほとんど表に出さない人なのに、投稿された文章には、読んでいるこちらの胸が詰まるほどの想いがにじんでいた。
【恋人同士でやりたい100のこと。前に一度、全部叶えた。でも彼女は忘れてしまったらしい。なら、俺がもう一度、最初から付き合う。失ってから戻ってきてくれた人だから、何より大切にしたい。彼女の願いなら、たとえ命を削ってでも叶える】
それは、私がずっと颯太としたかったことだった。
けれど、私が口にするたびに、颯太は「幼稚だ」と言い、「そんな時間はない」と言って、一度だって付き合ってくれなかった。
嫌がられていたのは、その100のことではない。
私とすることだった。
胸の奥が裂けそうに痛んだ。
震える手で颯太に電話をかけ、ちゃんと問いただそうとした。けれど発信する前に、颯太のほうから着信が入った。
颯太はすぐに言った。
「投稿文も写真も、全部椿が勝手にやったんだ。俺はただ、形だけ合わせてるだけだ。あいつの病状を考えたら、そうするしかなかった。
椿が、誰も非表示にしないでって言うから、お前にも見えるようになっただけだ。お前が傷つくのは分かってる。怒るな、千早。俺が愛してるのはお前だ。昔からずっと」
颯太は、全部嘘だと言った。
けれど、彼の顔に浮かぶ喜びも、椿を見るときの大切そうな眼差しも、あまりにも本物で、隠しようがなかった。
むしろ、何度も愛していると繰り返すその言葉のほうが、ひどく安っぽく聞こえた。
息がうまく吸えなかった。ベッド脇の心電図モニターが、ピッ、ピッと鳴り続けている。裏切りも、恐怖も、病の痛みも、全部が絡みついて、私は崩れ落ちそうだった。
額に汗が浮かび、そのまま流れ落ちて、目尻の涙と混ざった。
私は震える声で言った。
「颯太……胸が、苦しい。心臓が痛いの……」
私は、颯太なら心配してくれると思っていた。
けれど、返ってきたのは気遣いではなく、疑うような声だった。
「どうしてだ。移植はもう終わったはずだろう?」
そう言ったあと、颯太は何かに思い当たったように、すぐさま言い切った。
「千早、具合が悪いふりはやめろ。今は椿に張り合っている場合じゃないだろう」
胸の奥が、すっと冷えていく。
「違う……本当に痛いの。ふりなんかじゃない。お願い、少しだけでいいから来て」
けれど、返ってきたのは椿の声だった。
「ねえ、あなた。こっち来て。お風呂に入ってるんだけど、背中に手が届かないの。手伝って」
颯太の足音がして、電話の向こうの水音が少しずつはっきりしてくる。
私は心臓を押さえた。そうしていないと、この痛みに呑まれてしまいそうだった。
「本当に、手伝いに行くの? 私は何なの、颯太」
颯太の落ち着いた声には、わずかな苛立ちが混じっていた。
「全部、ただの芝居だ。そんなことで騒ぐな。いい子だから、分かってくれ。3か月のうち、もう3日は過ぎた。あと89日で全部終わる。だから安心して俺を待ってろ」
電話はそこで切れた。
何度かけ直しても、もうつながらなかった。ほどなくして、インスタに新しい投稿が上がった。
ずぶ濡れになった颯太のシャツが腹筋に貼りつき、赤いネイルをした細い指が、その隙間からシャツの中へ入り込み、胸元に置かれていた。
【甘えん坊な彼女に、触り心地がいいと言われた】
息が詰まり、咳が止まらなくなった。しばらくして、喉の奥から強い鉄の味がせり上がり、白い掛け布団に血を吐いた。赤い染みがじわりと広がる。
震える手でそこに触れようとした。けれど、視界はみるみるぼやけていき、私はそのまま意識を失った。
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