椿の咲く日に、私は消えた第3話
この話は約2178字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
私はテーブルに手を伸ばし、賢一郎に処方されていた薬を取って舌の下に入れた。けれど今度は少しも効かず、苦しさだけが増していく。
手足の先がみるみる冷たくなり、胸が詰まって、息が続かない。もう返事をする力もなかった。
颯太は私を抱き起こした。
「もう落ち着いたんじゃなかったのか。どうしてここまで悪くなる」
そう言って、賢一郎に電話をかける。
「千早がひどく苦しんでる。何が起きてるんだ」
しばらくして、受話口から賢一郎の声が漏れた。
「容体は落ち着いていたはずです。そこまで苦しむ理由はありません。……演技でもしているのでなければ」
颯太は黙り込んだ。
電話を切った直後、颯太のスマホに通知が入る。見えてしまった。椿からのメッセージだった。
颯太は画面を一目見るなり、ためらわず立ち上がった。
「悪い、行く」
「颯太」
私は必死に名前を呼んだ。
聞きたいことは山ほどあった。
どうして、医師の言葉ならすぐ信じるのに、私の言葉は信じてくれないの。
どうして、こんなに苦しんでいる私を前にしても、見ないふりができるの。
どうして、いつも最後には椿を選ぶの。
けれど、どれも声にならなかった。
颯太はもう一度だけ私を見た。
「緒方先生の話、聞こえただろ。これ以上そんなことをしても、意味ない」
それだけ言うと、振り返ることなく出ていった。
その途端、張り詰めていたものが切れた。私はソファの上で体を支えきれず、そのまま床に崩れ落ちる。
涙が出ているのに、口元だけが引きつっていた。痛みで体がこわばり、床の上で何度も身を丸めた。
栄子が慌てて119番に電話し、私は家から一番近い病院へ運ばれた。
薄れていく意識の中で、颯太の姿が見えた。その隣には、椿がいる。
周りの音が遠ざかっていくのに、椿の声だけはやけにはっきり聞こえた。
「ねえ、嬉しい? 私、妊娠したの。一か月だって。あなた、パパになるのよ」
「……ああ」
たったそれだけで、胸の奥が押し潰された。
もう、耐えられなかった。
目を閉じると、耳に届いていた心拍の音が、そこでぷつりと途切れた。
次に目を開けたとき、私はまだ生きていた。耳元では、機器の音がピッ、ピッと規則正しく鳴っている。
病室を見回しても、颯太の姿はなかった。ベッドのそばにいたのは、栄子と医師だけだった。
頭の中では、現実味のない「あなた、パパになるのよ」という声だけが、何度も繰り返されていた。
私は栄子に尋ねた。
「椿、妊娠しているのよね。中田さんも聞いたんでしょう? 嘘はつかないで」
栄子は返す言葉に詰まり、やがて小さくうなずいた。
寒気が背筋を這い上がってきた。指先から体温が抜けていくようで、震えを止められない。
妹みたいなものだなんて、全部嘘だった。
医師が眉をひそめた。
「泣いている場合ではありません。他人の妊娠より、今はご自分の心臓のことを考えてください。正直、かなり危ない状態です」
その言葉に、頭の中が真っ白になった。
「危ないって……どういうことですか」
私は震える声で聞き返した。
「手術は成功したって言われました。もう大丈夫だって。なのに、どうしてそんなに悪いんですか」
医師は首を横に振った。
「落ち着いて聞いてください。今ここで取り乱せば、それだけ心臓に負担がかかります」
医師は検査結果と画像を並べ、私に見せた。
「胸に手術痕はあります。ですが、検査を見る限り、心臓移植を受けた形跡は確認できません。
それから、最近かなり強い鎮痛薬を続けて使っていますね。痛みは抑えられていても、心臓そのものへの負担は消えていません。今は、その負担に耐え続けた心臓が、ぎりぎりのところで動いている状態です」
医師はそこで言葉を切り、少し声を落とした。
「この先は、無理な治療よりも、必要最低限の薬で苦痛を抑えることを優先したほうがいいと思います。残された時間で、会いたい人に会っておいてください」
医師の言葉を、私は時間をかけて理解していった。
胸の中にあったものが、すべて冷たく崩れていく。
「私……騙されていたのね」
緒方賢一郎は、颯太が連れてきた医師だった。
あの人は最初から、私に本当のことを言っていなかった。
「颯太も知っていたの? 手術は成功したって言って、私を安心させて……本当は、もう助からないところまで来ていたの?」
一度は希望を持たせておきながら、最後には何も残さない。
「どうして……どうして、そこまで私を追い詰めるの」
こらえきれなくなった瞬間、喉の奥に鉄の味が広がった。
私は血を吐いた。
栄子が息を呑み、慌てて私の体を支えた。
「奥様、違います。颯太様が奥様に生きていてほしくないなんて、そんなことあるはずがありません。
奥様の心臓を探すために、颯太様は本当にあちこち手を尽くされました。ご自身も適合検査を受けて、もし合うのなら、自分の命を差し出してでも奥様を助けるおつもりでした。
颯太様が、わざと奥様を危ない目に遭わせるはずがありません。きっと、何か事情があるんです」
痛みで体が折れそうだった。
颯太は以前、本当に私を助けようとしてくれていたのかもしれない。
けれど椿が戻ってきて、何もかも変わってしまった。
医師が看護師を呼び、私の体を支えた。
「落ち着いてください。このままでは本当に危険です」
そう言って、医師は私に注射をした。
私は震える手でスマホをつかみ、颯太に電話をかけた。
死ぬならせめて、真実を聞いてからにしたかった。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)
第4話は公式アプリで
当サイトでの試し読みはここまでです。アプリをインストールし、下のアプリ用コードを入力すると、この作品の第4話からそのまま読み進められます。
R29311- 下のボタンから公式アプリをインストールします(無料)。
- アプリを開き、「コードを入力」にこのコードを入れると、この作品が本棚に入ります。
作品ページへ戻る 当サイトに掲載しているのは試し読みの章だけです。