未来より長い、あの日の記憶第2話
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彩花は、母の工藤日和(くどう ひより)が住む古い団地へとゆっくりと足を進めていた。彩花がインターフォンを鳴らすと、日和は心配そうな顔で、彩花を家の中へと招き入れた。
部屋は小さくて家具も質素だったけれど、きれいに片付けられていた。
彩花が悠斗と結婚したとき、松浦家は都心の一等地に豪華なマンションを用意してくれた。
その時、彩花は日和に同居を提案したのだが、「彩花。松浦家のようなお家と縁ができただけでも、ありがたいことなの。だからお母さんまでお世話になるなんて、とんでもないわ」そう言って、日和はどうしても首を縦に振らなかった。
湯気の立っているスープを日和が持ってきてくれた。
「熱いうちに飲みなさい。あなたは産後間もないんだから、体を冷やしてしまっては後々体に響くわよ」
彩花は器を受け取った。その温もりが、冷え切った手のひらにじんわりと伝わってくる。
「お母さん。私、離婚したいの」
その言葉を聞いた瞬間、日和の手は震え、持っていたお盆を落としそうになった。
かつての光景を、今でも昨日のことのように思い出せる。
悠斗の猛烈なアプローチは、ごく普通の家庭で育った彩花を夢見心地にさせた。しかも、それは父を事故で亡くした後の、家計も苦しかった時期だったので尚更だった。
しかし、日和は猛反対していた。「彩花、悠斗さんが優しくしてくれるのは、あなたみたいな普通の子が物珍しいからよ。一緒に暮らしてみたら分かるわ。日々の暮らしの些細なことや、家柄の違いが、きっと二人を苦しめることになる」
だが、当時の彩花にはそんな日和の言葉など届くはずもない。
悠斗の深い愛情と松浦家の裕福さは、まるで一筋の光のように、彩花の暗い青春時代を照らしてくれた。
そして最後には、彩花は悠斗と二人で、一晩中、地面に額を擦りつけながら、日和に結婚の許しを請い続けた。
日和は、頑固な娘と誠実そうな御曹司の姿に心を打たれ、最終的には涙を拭いながら折れたのだった。
しかし今、日和の言ったことが現実になってしまった。
彩花は息を吸い、なんとか声を震わせないようにする。「でも、私にはお金がないの。赤ちゃんには、病院でたくさんのお金がかかるのよ。だから松浦家からは離れられない……」
そこまで言うと、もう言葉が続かなかった。喉が詰まって、胸が痛い。
話を聞き終えた日和は、ベッドの脇にある棚から通帳を一つ取り出すと、彩花の手へ渡した。
「ここにお父さんの労災保険金と、お母さんが今まで貯めてきたお金が入ってる」
そして、日和は彩花の冷たい手を握りしめる。「お母さん、家政婦でも清掃の仕事でもなんでもするから。赤ちゃんの病気は、私たちで治すのよ。一緒に背負うから」
「お母さん!」
彩花はもう堪えきれず、日和に抱きつくと大声で泣きじゃくった。
それからどれくらい泣いただろうか。突然、彩花のスマホが鳴った。病院からの電話だった。
「松浦さんですか?治療費のお支払いが滞っておりますので、お子さんを一般病棟に移させていただきました。至急、病院で手続きをお願いします」
電話を切るや否や、彩花は玄関を飛び出し、病院へと急いだ。
一般病棟の病室では、赤ちゃんがチアノーゼを起こし、ベッドにぐったりと横たわっていた。
彩花はふらつきながら主治医の診察室へ駆け込み、必死に懇願する。
「先生、お願いです!あの子を集中治療室に戻してください!」
医師は困ったようにため息をついた。「松浦さん、病院にも決まりがあるんです。とにかく、未払い分を清算していただかないと。さもないと……」
「さもないと、どうなるんですか?」
彩花の声は震えた。
医師は少し黙り込んでから、低い声で続ける。「お子さんの今の状態では、もってもあと20分でしょう」
20分?
彩花は全身の血の気が引いた。震える指でスマホを取り出し、悠斗に電話をかける。
長い呼び出し音の後、ようやく電話がつながった。しかし、聞こえてきたのは、今一番聞きたくない声だった。
「もしもし、秘書長の河内でございます」
彩花の頭に、一瞬で血がのぼる。「悠斗はどこ?電話を代わって」
しかし、泉は落ち着いた事務的な口調で返した。
「申し訳ございません。社長はいま大変重要な会議中ですので、私的なお電話はお繋ぎできないんです」
「河内さん、病院が治療を止めたの!このままだと、赤ちゃんが死んじゃう!お願いだから、悠斗に代わって!」
彩花は泣き叫んだ。我が子の生きるか死ぬかの瀬戸際、彼女のプライドなど無残にも砕け散り、何も残っていなかった。
「彩花さん、まずは落ち着いて下さい。社長の会議はグループ全体の利益に関わるものですから、中断はできません。では、失礼します」
そう言うと、泉は無情にも電話を切った。
彩花はベッドの上でますます弱々しくなっていく我が子を見つめる。残された時間は、たった20分。
もう後がなくなった彩花は目を閉じると、上着、セーター、そしてズボンを脱ぎ始めた……
下着だけになると、彩花は驚く医師の視線を振り切り、人通りの多い廊下へ飛び出して、甲高い声で叫ぶ。
「痴漢!先生に襲われた!」
その場にいた全員が、驚いて振り返った。そして、彩花を指さし、ひそひそと話し始める。
医師は怒りながら慌てて、彩花を診察室へ引きずり戻した。
「48時間だけ待ちますから。それまでに、未払い分と、これからの治療費を全額払ってくださいよ」
彩花は震えながら服を着ると、医師に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!先生、本当にありがとうございます!」
診察室を出ると、人々の視線はまだ複雑に絡みついてきた。しかし、そんなのは彩花にとってどうでもよかった。
残された時間は、たったの48時間。
懐には日和がくれた通帳があるが、それを全て使ったとしても、高額な医療費の前では焼け石に水なのだ。
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