未来より長い、あの日の記憶第1話
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松浦彩花(まつうら あやか)は妊娠七か月の身で、陣痛促進剤を混ぜられたジュースを飲んでしまい、その影響で早産となった。
そして、かなり早く生まれてしまった子どもは、すぐさま病院の集中治療室へと搬送されたのだった。
しかし、この悲劇を引き起こした犯人は今、平然とした顔で被告席に座っている。
証拠は十分だった。河内泉(かわうち いずみ)が彩花に渡したジュースからは薬が検出されたうえに、監視カメラにも泉が薬を入れる姿がしっかり映っていた。
だが勝訴を目前にして、彩花が長年愛してきた夫が、彼自らの手で示談書にサインしてしまったのだ。
裁判官の声が響く。「被害者側から示談書が提出されたため、被告人はこれをもって釈放とする」
法廷が一瞬にして騒めいた。
彩花は傍聴席の最前列にいる松浦悠斗(まつうら ゆうと)の方へと勢いよく振り返った。
悠斗は端正なスーツに身を包み、表情は落ち着き払っていて、その全身からは長くトップに立ち続けてきた者だけが放つ威厳が滲み出ていた。
「悠斗!」
彩花は彼の名前を叫びながら駆け寄り、その腕を力一杯掴む。「なんで河内さんを許しちゃうのよ!あの女せいで私の子は大変な目に遭っていると言うのに!」
泣き叫ぶ彩花は、悠斗をめちゃくちゃに叩いた。「人でなし!どうしてこんなひどいことができるのよ!」
しかし悠斗は、そんな涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、髪を振り乱す彩花の姿を、冷たい目で見つめた。
「そのみっともない姿はなんだ?お前は松浦グループ社長夫人で、俺の顔でもあるんだぞ。もっとその自覚を持って、品位ある行動を心がけろ」
彩花は呆然とした。
品位?こっちは赤ちゃんの命に関わることだというのに、犯人を野放なんて。それでいて、まだ体裁を気にして、品位ある行動をしろというのか……
いろんな記憶のかけらが、頭の中に蘇る――
* * *
松浦彩花(まつうら あやか)は妊娠七か月の身で、陣痛促進剤を混ぜられたジュースを飲んでしまい、その影響で早産となった。
そして、かなり早く生まれてしまった子どもは、すぐさま病院の集中治療室へと搬送されたのだった。
しかし、この悲劇を引き起こした犯人は今、平然とした顔で被告席に座っている。
証拠は十分だった。河内泉(かわうち いずみ)が彩花に渡したジュースからは薬が検出されたうえに、監視カメラにも泉が薬を入れる姿がしっかり映っていた。
だが勝訴を目前にして、彩花が長年愛してきた夫が、彼自らの手で示談書にサインしてしまったのだ。
裁判官の声が響く。「被害者側から示談書が提出されたため、被告人はこれをもって釈放とする」
法廷が一瞬にして騒めいた。
彩花は傍聴席の最前列にいる松浦悠斗(まつうら ゆうと)の方へと勢いよく振り返った。
悠斗は端正なスーツに身を包み、表情は落ち着き払っていて、その全身からは長くトップに立ち続けてきた者だけが放つ威厳が滲み出ていた。
「悠斗!」
彩花は彼の名前を叫びながら駆け寄り、その腕を力一杯掴む。「なんで河内さんを許しちゃうのよ!あの女せいで私の子は大変な目に遭っていると言うのに!」
泣き叫ぶ彩花は、悠斗をめちゃくちゃに叩いた。「人でなし!どうしてこんなひどいことができるのよ!」
しかし悠斗は、そんな涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、髪を振り乱す彩花の姿を、冷たい目で見つめた。
「そのみっともない姿はなんだ?お前は松浦グループ社長夫人で、俺の顔でもあるんだぞ。もっとその自覚を持って、品位ある行動を心がけろ」
彩花は呆然とした。
品位?こっちは赤ちゃんの命に関わることだというのに、犯人を野放なんて。それでいて、まだ体裁を気にして、品位ある行動をしろというのか……
いろんな記憶のかけらが、脳裏に蘇る――
5年前の結婚式。悠斗は目を潤ませながら言っていた。「一生大切にする。絶対に悲しませない」と。
結婚してから彩花は、子供を授かるために何度も病院に通った。しかし検査の結果、不妊の原因は悠斗にあると分かった。
彩花は悠斗が受け入れられないのではないかと心配し、診断書を隠して、「原因は自分にある」と周りには言っていた。
体外受精のために、数え切れないほどの注射を打ち、様々な薬を飲んだ。
そんな努力が身を結び妊娠が分かった日には、悠斗は喜びから彩花を抱き上げて映画のワンシーンのように回った。そして、彩花そっと降ろしながら、彩花と子供には何でも最高のものを与えると約束してくれたのに。
幸せだった頃の思い出と、今の絶望的な現実。その落差が彩花の理性を壊す……彩花は泉に掴み掛かろうとした。
「殺してやる!」
「いい加減にしろ!」
悠斗は彩花をぐいっと掴むとそのまま地面に押しつけた。そして、鞄から診断書の束を取り出し、彩花の目の前に叩きつける。
ばらまかれた書類の中の外国語で書かれた診断書が目に入った。
「自分で見てみろ」悠斗の声は冷酷だった。「お腹の子はもともと先天性の心臓病があった。だから、あのジュースを飲んでいなかったとしても、臨月まで持たなかっただろう」
彩花はよろめく体に鞭を打ち、震える手でその書類を掴む。憎しみと共に、涙が紙の上へと落ちた。
「ありえない。赤ちゃんは健康だってお医者さんは言ってたもの!これは偽造に決まってる!」
「偽造?」悠斗は彩花に顔を近づけた。「これは河内さんが海外でもトップクラスの医療機関に依頼して検査してもらった結果だ。偽造がそんな簡単なものだと思ってるのか?」
産後の体は弱りきっていて、起き上がる力さえ残っていなかった彩花は、みじめに床に這いつくばることしかできなかった。
しかし、彩花を見下ろす悠斗の目には一欠片の同情もない。
「これ以上、俺を怒らせないでくれ。この話はこれで終わりだ」
悠斗は身を屈め、彩花を見つめる。そして宥めるようでありながら、半分は脅すような口調で言葉を続けた。「海外から最高の医療チームを呼んで、子供の治療をしてやる。ただし条件は……お前がこれ以上騒ぎ立てないこと、だ。いいな?」
しかし、悠斗の視線は彩花の返事を待つことなく、係官に連れられて来ていた泉に移っていた。そして、彼女にかけるその声は、とても彼女を労るものだった。
「河内さん、大変だったな。今日は、早く帰ってゆっくり休むといい」
「社長……」
泉は目に涙を浮かべ、何か言いたそうに口ごもった。その姿はとても同情を誘う。
「もう終わったことだ。あとは俺がうまくやっておくから」
頷きながら涙をぽろぽろと溢す泉の姿は、ひどく哀れに見えた。
そんな時、裁判長が近づいてきて、彩花に判決への異議はないか尋ねた。
彩花は口を開きかけたが、保育器の中の小さな命が頭に浮かぶと共に、悠斗の「これ以上騒ぎ立てるな」という言葉が耳に蘇る。
閉じられた彩花の目から、一筋の冷たい涙が頬を伝った。
「異議はありません。これ以上、被告の責任を追及することはしません」
そんな彩花の様子を見た悠斗は満足げに微笑むと、彩花の腰に手を回し自分の方へと抱き寄せ、裁判長に軽く会釈をする。
「妻がご迷惑をおかけしました。今後の件も、よろしくお願いいたします」
すると、さっきまで威厳を放っていた裁判長だったが、急に90度近くまで腰を折り、媚びるような笑みを浮かべ始めた。
「松浦社長、そんな、そんな。こちらでしっかりとやらせてもらいますので、決して悪い噂が流れるようなことはありませんよ」
帰りの車の中、彩花は窓に頭をもたれ、黙って外を眺めていた。
そんな彩花に、悠斗はカバンからファイルを取り出し差し出した。
彩花はゆっくりと顔を向ける。「何これ?」
「示談書の補足資料だ」
悠斗の口調は穏やかだったが、そこには断ることのできない威圧感があった。
「これにサインすれば、この件は法的に完全に片付くから、後でごたごたしなくて済む」
しかし、彩花は視線をファイルから悠斗の顔へと移し、ふっと口の端を吊り上げる。
「悠斗。河内さんとはいつから?」
彩花が言い終わるや否や、悠斗は苛立たしげに舌打ちし、冷たい目を彩花に向けた。
「くだらないことを考えるな。俺と河内さんは、ただの上司と部下の関係で、やましいことは何もない」
「やましいことは何もない?」彩花はふっと笑った。「今日まで、私も自分の考えすぎだって思ってたわ」
彩花は声を詰まらせながら、この半年間、心の奥に無理やり押し込めてきた一つ一つの出来事を悠斗に突きつける。
「3ヶ月前、あなたのシャツの襟についてた口紅、河内さんのものと全く同じだった。
2ヶ月前の私の誕生日。あなたは急な会議があったからと夜中に帰ってきたけど、あなたの体からは河内さんの香水の匂いがしたわ」
それに……
彩花の声はもう震えていた。「疑わなかったわけじゃない!でも――」
でも、悠斗はこれでもかというほど自分に優しくしてくれていたのだ。
妊娠初期、足がよくつっていた。そんな時、悠斗はどんなに夜遅くても、疲れていても、必ず起きて1時間はマッサージしてくれた。
つわりがひどい時には、料理なんてしたこともない悠斗が、自分のためにうどんの作り方を覚えてくれた。指が火傷の水脹れだらけになるほどに。
ひとつひとつ話すごとに、彩花の心は冷えていく。「あなたは会社の仕事ですごく忙しそうだったから、河内さんのように気が利いて有能な秘書がそばで支えてくれるなら、それはいいことだと思ってた。
でも、結果は?!」急に声を張り上げた彩花の目には、怒りの炎が燃え上がっている。
「河内さんが飲みかけのコーヒーをあなたの口元に差し出して、あなたが平気でそれを飲んだのを見た時、私はただ『少しは節度を持って』と彼女に言っただけなのに。それだけで、彼女は私に薬を盛って妊娠を誘発し、まだ未熟児の赤ちゃんを集中治療室で殺そうとしたのよ!」
彩花は、みるみる顔色が変わっていく悠斗を睨みつけ、一語一句問い詰めていく。
「それでもあなたはまだ示談書にサインできるっていうの?それでいて、二人の間にやましいことは何もないって言えるわけ?」
悠斗の表情はめまぐるしく変わり、何かを天秤にかけているようだった。
やがて、彩花の手を握り、口調を和らげる。
「彩花、俺が悪かったんだ。確かに一度だけ、越えてはいけない一線を越えてしまった。去年の海外出張で飲みすぎて、河内さんと、その……過ちを犯してしまった。本当に後悔してる。だから今回は……俺がしでかしたことに対する、河内さんへの償いだと思って、受け入れてくれないか?」
「償い?」
彩花は悠斗の手を激しく振り払う。胃がひっくり返るような吐き気に襲われた。
悠斗に飛びかかり力任せに叩く。「悠斗、本当最低。あなたが犯した過ちのせいで、どうして私と赤ちゃんが命をかけてまで償わなきゃいけないの?」
「彩花!いい加減にしろよ!」
ついに我慢の限界に達した悠斗は、彩花の手首を強く掴んだ。
「サインしろ。子供の治療には全力を尽くす。これ以上騒いでも誰のためにもならない。それに、今日はもう十分恥をかいたんだから」
また、恥とかなんとか言ってる。
悠斗にとっては、子供を失いかけた自分の痛みも、自分がもう少しで死ぬとこだったことも、体裁と比べれば全てどうでもいいことなのだ。
彩花は力いっぱい悠斗を突き飛ばす。「嘘つき!人殺し!あなたたちは共犯よ!私の赤ちゃんを陥れた!ろくな死に方しないわ!」
「車を止めろ!」
悠斗が鋭く叫ぶ。
運転手が急ブレーキをかけると、車は道端に止まった。
悠斗はドアを開け、涙でぐしょぐしょの彩花を車から突き落とす。「頭を冷やせ。どうすれば松浦家の嫁として恥ずかしくない振る舞いができるか、よく考えろ」
そう言い残すと、悠斗は「バンッ」とドアを閉め、走り去っていった。
初秋の夜風が、薄着の彩花の身に吹きつけ、彼女は寒さに体を震わせた。
周りではネオンが輝き、車が絶え間なく行き交っている。でも、そのどれもが、今の彩花には関係のない世界だった。
病院には生死の境をさまよう我が子がいるのに、自分の夫は犯人をかばい、自分のことはゴミのように捨てた。
信じていた家庭も、愛情も全てがガラガラと崩れ落ちていく。
彩花は低く笑い始めた。その笑い声は次第に大きくなり、最後には号泣に変わった。
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