月は雲に隠れ、愛は傷になる第2話
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まさかこれほどあっさりと承諾するとは思っていなかったのだろう。時夫はしばらく呆気に取られていたが、やがて我に返ったように興奮気味に声を上げた。
「わかった、400億で手を打とう。すぐに契約書を用意させる」
茉知は短い了解の言葉を口にし、通話を切った。
乱れた気持ちを整えて顔を上げると、固く手を繋ぎ合って部屋から出てきた二人の姿が目に入った。茉知は掠れた声で、兄さん、義姉さん、と呼びかける。
その呼び方を聞いた瞬間、将吾は明らかな動揺を見せ、しばらくの間、茉知から目を離すことができなかった。
茉知の表情に疑念がないことを確かめると、彼はぎこちなく小さく頷く。それはどうやら、黙認という意味らしい。
歌穂は恥じらうように小さく「ええ」と返事をしてから、探るような口調で尋ねてきた。
「茉知、本当に何も覚えていないの?」
茉知は静かに首を振る。
「覚えてない。でも不思議ね――どうして私は『星山』なのに、兄さんは『望月』なの?」
そう言いながら、まっすぐに将吾の目を見つめ、その答えを待った。
彼の返答は、予想を裏切るものではなかった。
「お前は……母方の事情で、星山の姓を名乗ることになったんだ」
その一言に、茉知の瞳がじわりと熱を帯び、赤く滲む。
今にも堪えきれずに涙がこぼれ落ちそうになった、その瞬間。折よく看護師がやってきて、検査の時間だと急かした。
茉知はその声に縋るように必死に涙をこらえ、くるりと背を向けると、逃げるように検査室へと早足で向かった。
歌穂がすかさず歩み寄り、いかにも心配そうな顔を作って茉知の手を取る。
「一人じゃ不便でしょう。お兄さんと一緒に付き添うわね」
茉知にはすべてわかっていた。記憶喪失が本当かどうかをまだ疑っており、監視の目を離せないだけなのだと。
だからこそ、検査室に入ってからも、医師に何を問われようと「何もわかりません」と答え続けた。
医師もすっかり騙されたようで、診断書に【健忘症】と書き記し、数種類の薬を処方してくれた。薬をきちんと服用すれば、1か月ほどで記憶が戻るだろうとのことだった。
その言葉を聞き、茉知は思わず顔を上げる。不意に将吾の表情が視界に入った――何とも形容しがたい複雑な感情が、その顔に色濃く滲んでいた。
ふと目が合うと、彼は気まずそうにすっと視線をそらし、立ち上がった。
「薬を受け取ってくる」
その背中を見送った後、歌穂が茉知の病室まで送ると言って隣に並んで歩き出した。そして道すがら、わざとらしく昔の自慢話を始める。
「どうせ昔のことは覚えていないんでしょうから、私と彼の馴れ初め、聞かせてあげるわ。私たちね、まだ小さな頃から婚約していたの。
彼の夢はずっと、私と結婚することだったのよ。無愛想で近寄りがたそうに見えるでしょう。でも私の前だと、途端に可愛くなっちゃうんだから。
昔ね、おままごとをして遊んでいた時、別の男の子が私の花婿役をやることになって、そうしたら彼、嫉妬して目を真っ赤にして怒ってね――あの手この手でその子を邸宅街から追い出したのよ、私に近づくなって。
それにね、高校の時は、真夜中に私が栗まんじゅうを食べたいってSNSに書いたら、真冬なのに学校の塀を乗り越えて買いに走ってくれて。3本も通りを駆け回った挙げ句、最後は学年主任に見つかって捕まっちゃって。あんなに真面目な優等生だったのにってみんな唖然としていたわ。
私が18歳の誕生日を迎えた時には、ダイヤのネックレスと、ガラスの靴と、プリンセスドレス、それにお城まで贈ってくれて――あの時は周りの女の子たちから羨ましがられたものよ。
ああ、そうそう。彼、私の写真を撮るのが大好きでね。彼のスマホには、私を撮った写真が1万枚くらい入っているんじゃないかしら。会えない時間は、その写真を見て過ごすんだって言っていたわ。
一度スマホをなくした時は、もう半狂乱になって、2000万円も謝礼を出すって騒いでたくらいよ」
茉知はただ黙って聞いていた。そして、彼のスマホのアプリが、片っ端から厳重にロックされていた理由がようやくすべて合点がいったのだ。
これほどまでにたくさんの秘密が隠されていたのだと。
胸の中に、冷たい鉛のようなものがずっしりと詰まっていく感覚があった。息苦しいほどに重く、そして果てしなく暗い。
どろりとしたその感情を、時間をかけてゆっくりと飲み込んでから、茉知はふと心に浮かんだ疑問を口にした。
「それで、なんで結婚しなかったの?」
その言葉が唇からこぼれ落ちた瞬間、ちょうど病室の前で将吾と鉢合わせた。
いつもは感情の読めない彼の顔に、かすかな波紋が広がる。その瞳の奥には、どす黒い暗雲が立ち込めていた。
歌穂は顔を赤くしたかと思えば青ざめ、目まぐるしく表情を変え、何と答えればいいかわからず狼狽しているようだった。
三人の間に、息の詰まるような気まずい沈黙が降りる。
耐えきれず茉知がその場を離れようとした、まさにその時。歌穂の体がふらりと傾き、糸が切れたように崩れ落ちた。
「歌穂ッ!」
将吾の顔から血の気が失せた。飛びつくように彼女を抱き上げると、血相を変えて救急室へと駆けていく。
診察の結果、彼女は血液の凝固障害がある体質で、生理中に服薬を怠ったことが原因で失血性ショックを起こしたのだという。一刻も早い輸血が必要な状態だった。
だが不運なことに、その日は市内で大規模な多重事故が起きており、血液はすべてそちらの救急患者へと回されていた。病院の血液バンクは完全に底をついているという。
今すぐに輸血ができなければ、歌穂は出血多量で取り返しのつかない状態に陥る。最悪の場合、命に関わりかねない。
その宣告を聞いた瞬間、将吾はもはや平静を保てなくなった。
茉知の腕をきつく掴み、縋りつくように懇願する。
「茉知、お前と歌穂は血液型が同じはずだ。頼む、あいつを助けてやってくれ」
茉知は、必死な形相の将吾をただじっと見つめ返した。2日前に自分が事故に遭い生死の境をさまよった時、彼がこんな顔を見せたことなど一度もなかったのに、と冷え切った頭の片隅で思いながら。
ゆっくりと視線を落とし、自らの手に巻かれた痛々しい包帯を見る。そして、一切の感情が抜け落ちた声で言った。
「忘れたの?私、手術してからまだ3日も経っていないんだけど」
それでも将吾は引き下がらなかった。
「命がかかっているんだ。少しくらい血を抜いたって大丈夫だから……」
その無慈悲な言葉を聞いた瞬間、茉知の喉の奥がきゅっと締め付けられた。肺に空気がうまく入ってこない。
看護師にさらに急かされ、将吾は半ば強引に茉知の背中を押し、採血室へと連れていった。
「茉知、お願いだ。今回だけでいい。歌穂を助けてくれ。俺は彼女を失えないんだ!」
茉知の胸に、またしても鋭い痛みが走る。
「そんなに、彼女のことが好きなの?」
茉知の問いかけは微かに震えていた。しかし将吾の答えは、微塵も揺らぐことはなかった。
「ああ。俺のこれまでの人生で、こんなに誰かを好きになったことはない」
茉知は、全身を雷に打たれたかのように硬直し、身動き一つ取れなくなった。
将吾は、それほどまでに深く歌穂を愛していたのだ。
では――今まで側にいた自分は、彼にとって一体何だったのだろうか。
看護師が冷たい採血バッグを手にしてやってくる。鋭く細い針が、茉知の血管へとゆっくり差し込まれた。
なぜだろうか、針が刺さる痛みなど、ほとんど感じなかった。
だって本当に痛いのは、胸の奥底だとわかっていたから。まるで心そのものが引き裂かれるみたいに、ずっと、ずっと痛んで血を流し続けていたから。
じわじわと顔色から生気が失われ、蒼白になっていく。涙と虚脱感で視界が滲み、急速に意識が遠のいていく。
朦朧とする意識の中で、遠くから看護師の声が聞こえた。
「患者さんが目を覚ましました」
将吾がこちらを一度も振り返ることなく、弾かれたように駆けていった。その無情な背中を虚ろな目で追ったまま、茉知はもう立っていることすらできなかった。
――そのまま、冷たい床へと力なく崩れ落ちた。
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