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月は雲に隠れ、愛は傷になる第1話

この話は約3354字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

交通事故に遭った後、星山茉知(ほしやま まち)はふとした悪戯心から、目の前にいる恋人に記憶を失ったふりをして尋ねてみた。

「……あなたは、誰?」

望月将吾(もちづき しょうご)はしばらく黙り込んだ。長い沈黙の末、ようやく口を開く。

「……お前の兄さんだよ」

その一言は、胸の奥底に冷たい小石を落とされたかのように響いた。茉知の顔から、笑みがすうっと消えていく。

まだその言葉の意味を咀嚼しきれずにいると、ドアがノックされた。

「望月さん、南雲さんが生理痛でかなりつらそうで……ずっとお名前を呼ばれているのですが、様子を見に行かれますか」

将吾は一瞬の迷いもなく立ち上がる。

「先に行く。茉知、ゆっくり休んでろ。後でまた来るから」

それだけを言い残し、彼は去っていった。

遠ざかる背中をただ見つめながら、茉知の胸は激しく揺さぶられ、気づけば問いかけていた。

「南雲さんって、誰……っ?」

少しの間を置いてから、将吾の声が返ってくる。

「俺の好きな人だ。お前の、未来の義姉になる人だよ」

* * *

交通事故に遭った後、星山茉知(ほしやま まち)はふとした悪戯心から、目の前にいる恋人に記憶を失ったふりをして尋ねてみた。

「……あなたは、誰?」

望月将吾(もちづき しょうご)はしばらく黙り込んだ。長い沈黙の末、ようやく口を開く。

「……お前の兄さんだよ」

その一言は、胸の奥底に冷たい小石を落とされたかのように響いた。茉知の顔から、笑みがすうっと消えていく。

まだその言葉の意味を咀嚼しきれずにいると、ドアがノックされた。

「望月さん、南雲さんが生理痛でかなりつらそうで……ずっとお名前を呼ばれているのですが、様子を見に行かれますか」

将吾は一瞬の迷いもなく立ち上がる。

「先に行く。茉知、ゆっくり休んでろ。後でまた来るから」

それだけを言い残し、彼は去っていった。

遠ざかる背中をただ見つめながら、茉知の胸は激しく揺さぶられ、気づけば問いかけていた。

「南雲さんって、誰……っ?」

少しの間を置いてから、将吾の声が返ってくる。

「俺の好きな人だ。お前の、未来の義姉になる人だよ」

そう言い残し、将吾は足早に立ち去った。

茉知はその場に立ち尽くし、目を見開いたまま動けずにいた。

今しがた自分の耳で聞いた言葉が、どうしても信じられない。

ふらふらと後を追うと、南雲歌穂(なぐも かほ)が将吾にすがりつき、まるで雨に打たれた花のように泣き崩れている光景が目に飛び込んできた。

「茉知が記憶をなくしたって聞いたわ。それで、自分が兄だなんて嘘をついたのね?本当は彼女と結婚したくないんでしょう?あなたの心にいるのは、ずっと私なんでしょう?」

将吾はその手を引きはがした。表情こそ変えないものの、愛憎の入り混じった感情に、目の縁をうっすら赤くしている。

「南雲歌穂。俺の人生で一番辛い時期に、何のためらいもなく俺を捨て、俺の宿敵のところへ寝返った女が――何を根拠に、俺がまだお前を愛していると思う」

氷のように冷たい声で突き放されても、歌穂はさらに激しく泣きじゃくった。

「だって、あの時は仕方なかったのよ。パパとママが、あなたはもう廃人だからって言い張って、結婚を許してくれなかったの。両親に死ぬと脅されさえしなければ、あなたを捨てたりしなかった。茉知に付け入る隙を与えたりもしなかったわ。

分かってるわ。あなたが茉知に感じているのは、ただの感謝よね?最近、彼女と仲のいいところを見せつけていたのも、私を刺激するためだったんでしょう?

ねえ、彼女が記憶をなくした今なら、もう一度だけ私にチャンスをくれない?あの子、今は記憶をなくしているんだから、もう一度やり直しましょうよ。

記憶が戻るまで、恋人のふりだけでもいい。そうじゃなきゃ私、納得できないわ――あなたは昔、あんなに私を愛してくれていたのに」

将吾の首筋にうっすらと青筋が浮かんだ。手を上げ、すがりつく歌穂を押しのけようとした。

だが彼女は諦めなかった。つま先立ちになって彼の首に腕を回し、その唇に自分の唇を重ねたのだ。その声には、もう後には引かないという覚悟がにじんでいた。

「将吾。あなたが私を愛していないわけないわ。もう一度押しのけるなら、私、あなたのことを完全に諦める。別の男のところに行くわよ」

将吾は石になったかのように、ぴたりと動きを止めた。

歌穂がさらに深く唇を重ねてくる。そしてその瞬間、彼もついにすべてを投げ捨て、抑えきれない想いのまま、彼女の体を強く抱きしめ返した。

2人が唇を絡ませ、離れがたそうに抱き合う光景を目の当たりにして、茉知の顔からさあっと血の気が引いた。

強く握りしめた両手の爪が、深々と掌に食い込む。歯を食いしばり、嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えた。

それでも胸の奥を鋭利な刃で深くえぐられたようで――心が千切れ、血を流しているかのように、息をするのすら困難なほどに痛かった。

鼻の奥がツンと痛み、苦い涙が、胸をよぎる記憶とともにどっと押し寄せてくる。

茉知が初めて将吾に出会ったのは、16歳の時だった。その一瞬で、恋に落ちたのだ。

彼は学校一の人気者であり、学年トップの成績を誇る、名門・望月家の御曹司だった。そして彼には、幼い頃から親に決められた許嫁がいた――南雲グループの令嬢、歌穂だった。

だからこそ茉知の淡い想いは、声に出す間もなく、静かに萎んでいくほかなかった。

それからの長い日々、彼女はひっそりと自分の気持ちを心の奥底に閉じ込め、眩しいほどに輝くあの少年を、ただ遠くから見つめることしかできなかった。

転機が訪れたのは、茉知が20歳になった年だった。将吾はある事故で両足の自由を失い、一族から見捨てられた。

そして最愛の歌穂は、彼が最も打ちのめされていたその時期に婚約を破棄し、彼と長年犬猿の仲だった男のもとへと去っていったのだ。

誰もが彼から離れていくなか、茉知だけは揺るぐことなく、彼の側に残る道を選んだ。

そのために、両親が決めた縁談を固辞した。両親に激しく殴られて頭から血を流し、片耳の聴力を永遠に失うことになっても、彼のもとへ通うことを決してやめなかった。

廃墟同然の古い屋敷へ移り住み、根気強く丁寧に彼の身の回りの世話を焼いた。心血を注いで各地の名医を探し歩き、共に長く苦しい治療の旅を続けた。深い闇に沈みゆく彼の心に、ただ静かに寄り添い続けた。

彼の人生で最も過酷だった6年間を、ともに生き抜いた。そうしてついに、彼にとって唯一無二の存在となったのだ。

やがて将吾の両足は完治し、彼は再びその足で立ち上がった。望月家の実権を取り戻し、華やかな世界の中心へと堂々と返り咲いたのだ。

将吾は茉知を溺愛した。美しい宝石を贈り、豪奢なドレスを買い与え、忙しい合間を縫ってデートの時間を割き、折に触れてサプライズを仕掛け、夜には甘く肌を重ねた。

これが愛なのだと、茉知は心の底から信じていた。

でも――今、この目ではっきりと見てしまった。

将吾は、一瞬たりとも歌穂を忘れてなどいなかったのだと。

10年間ずっと心の支えにしてきた想い。どれほど絶望しようと、どれほど苦しかろうと、決して消えることのなかったあの愛が今、音を立てて脆くも崩れ去っていく。

涙がぽろぽろとこぼれ落ち、衿元を濡らす。冷たい灰のようになってしまった心までも、一緒に濡らしていく。

全身から気力が抜け落ちていくようだった。うな垂れた視線の先で、スマホが震えている。

電話に出ると、将吾の祖父・望月時夫(もちづき ときお)の嗄れた声が聞こえてきた。

「星山さん、あの時、将吾が受けた恩は、わしも望月家の者もよう分かっておる。君が多くのものを犠牲にしてくれたこともな。

だが、将吾の今の立場を考えれば――片耳の不自由な女性を嫁に迎えるわけにはいかん。欲しいものがあるなら言いなさい。金でも住まいでも、用意できるものは用意しよう」

この半年間、何度となく聞かされてきた言葉だった。これまでは気にも留めず、静かに聞き流してきた。

けれど今この瞬間、部屋の中で深く愛し合うように口づけを交わしている光景を見つめながら、茉知は震える手で左耳の補聴器にそっと触れる。彼女の口から紡がれた声には、ただ深い絶望だけが満ちていた。

「……わかりました。400億円、用意してください。将吾のそばを離れます」

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