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月は雲に隠れ、愛は傷になる第3話

この話は約2769字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。

どれほどの時間が過ぎたのだろうか。気がつくと、傍らには時夫が腰を下ろしていた。

ひとしきり体調を気遣う言葉を並べた後、彼はカバンから1枚の書類を取り出し、茉知の手に握らせた。

「400億円と、きっちり明記してある。サインをもらえれば、すぐに半分を口座へ振り込もう。残りの半分は、君がこの国を発つ日に送金する手筈になっている」

茉知は契約書に最初から最後まで目を通したが、異議は何もなかった。ただ静かにペンを走らせ、自らの名前を書き記す。

「パスポートとビザが取れ次第、出て行きます。もう二度と戻りません」

時夫は満足げに深く頷き、立ち上がろうとしたその瞬間、将吾と鉢合わせた。

「じいさん。どうしてここに……?」

不意を突かれた時夫は動揺し、手にしていた契約書を取り落とした。ばさっと、紙が床に落ちる音が響く。

将吾は眉をひそめ、身を屈めてそれを拾い上げると、中を見ようとした。茉知はすかさず声をかける。

「少し、頭がくらくらして。お医者さんを呼んできてもらえる?」

将吾の手がぴたりと止まった。茉知と時夫の間で鋭い視線を行き来させた後、拾った契約書を無言で時夫に返し、医者を呼ぶために踵を返した。

彼が戻ってきた時には、すでに時夫の姿はどこにもなかった。

将吾はコップに水を注ぎながら、いつものような平坦な調子で尋ねてきた。

「じいさん、またお前を追い出そうとしに来たのか。まさか、承諾なんかしてないよな」

茉知は伏せていた睫毛をわずかに震わせた。その声には、うっすらと冷ややかな色が滲んでいる。

「離れるって、何の話?兄さん、私には何のことかわからないのだけど」

将吾はそこでハッと今の状況を思い出したのか、かすかに顔色を変え、慌てたように話題を逸らした。

「……いや、何でもない。体の具合はどうだ。何か辛いことがあったら遠慮なく言ってくれ。心配だからな」

心配。

意識を失う直前に見た無情な光景が鮮明に蘇り、茉知は声も立てずにそっと自嘲の笑みをこぼした。

このくだらない茶番にこれ以上付き合う気力は、もう残っていなかった。ひどく疲れ果てた声で言う。

「私は大丈夫。彼女さんのそばにいてあげて。しばらく一人でゆっくり休みたいから」

憔悴しきった茉知の顔を見て、将吾の胸にちくりと罪悪感がよぎったようだった。

これ以上邪魔をするのも気が引けたのか、付き添いのヘルパーを呼び入れると、そのまま静かに病室を後にした。

それ以来、退院の日まで彼が顔を出すことはなかった。

代わりに歌穂が、毎日せっせとSNSを更新し続けた。

レストランで、器いっぱいに盛られたむき海老。窓の外を鮮やかに彩る大きな花火。助手席ではしゃぎながら撮った自撮り写真――どの写真の端にも、ごく自然な距離感で将吾の横顔が映り込んでいた。

茉知はただただ画面をスクロールし続け、そのひとつひとつに「いいね」を押していった。

退院の日。一人で家に帰ると、将吾がキッチンに立っている姿が見えた。歌穂はドアのところに寄りかかり、料理本を片手にしている。

「今日はね、車海老の天ぷらと、地鶏の塩焼きと、鯛の煮付けが食べたいわ。あと、搾りたてのマンゴージュースもね」

茉知の気配に気づいた歌穂が振り返り、花が咲くようににこりと笑いかけた。

「あら茉知、帰ってきたの?何か食べたいものはあるかしら?」

「いいえ。お腹は空いていないから」

歌穂は引き留めるようにして、どうしても選ばせようと食い下がってくる。

「遠慮しないで。お兄さん、料理がすっごく得意なのよ。昔、私がバイオリン留学で海外にいた時、ずっと一緒について来てくれてね。

私がお腹を空かせないようにって、独学で料理を全部マスターしてくれたの。だから何でも作れるのよ。しかも、私のためだけに料理するって言っているんだから、茉知は絶対に食べたことないはずよ」

自慢げな声を聞き流しつつ、手際よく魚をさばいていく将吾の背中を眺めていると、茉知はふと昔の記憶を思い出した。

将吾の弱った体のために、自分がどんなに忙しくて疲労困憊していても、1日3食きっちりと栄養のあるものを食べさせようと必死だったあの頃。

その一方で、自分自身は目が回るほど働き詰め、安いカップラーメン1つで1日をしのぐことなど日常茶飯事だった。

こんなにも長い年月を共にしてきて、将吾が料理を作れるのだという事実を、茉知は今日初めて知った。

彼女は一瞬ぼんやりとした。

そういえば、あの頃、低血糖で倒れた自分に対して、彼がしてくれたことといえば、せいぜいカバンに飴を常備しておくことくらいだった。

今さらになって、茉知は骨の髄まで思い知らされた――愛しているかどうかの差というのは、こんなにも残酷なまでに目に見えるものなのだと。

またしても、目の奥が熱く潤んでくる。

私って、本当にどうしようもないほど滑稽ね。

やがて食事の支度が整い、料理がテーブルに並べられた。

2人は楽しげに言葉を交わしながら箸を進める。

一方、茉知はうつむいたまま黙々と食事を口に運び、ひと言も発することはなかった。

これ見よがしに仲のよさを見せつけるように、ほら一口飲んでみて、と甘えるように言いながら、歌穂が自分の飲みかけのマンゴージュースのグラスを将吾の口元へと運んだ。茉知はちらりとそれに目をやり、気づけばぽつりと呟いていた。

「彼、マンゴーアレルギーだよ」

その一言で、部屋の空気が水を打ったように静まり返った。

歌穂の顔に一瞬だけ戸惑いが走り、すぐに取り繕うような笑みを浮かべる。

「えっ、マンゴーだったかしら。私てっきりレモンだと思っていたわ。ごめんね将吾、私の勘違い。次は絶対に覚えておくから」

しょんぼりと肩を落とす歌穂を見て、将吾は優しげに目元を和らげた。そして自らそのマンゴージュースのグラスを手に取ると、躊躇いなく一口飲んでみせる。

「勘違いじゃない。レモンのほうにアレルギーがある」

歌穂の顔から、さあっと翳りが消え去った。

「やっぱり。私の記憶は正しかったのね」

嬉しそうに微笑み合う二人を見つめながら、茉知は薄く唇を開いた。何かを言おうとして――結局は何も言えず、固く口をつぐんだ。

食事が終わり、歌穂がトイレへ立った隙に、将吾は素早い動作で棚を漁り始めた。片っ端から引っ掻き回しても、肝心のアレルギー薬が見つからないらしい。

彼の肌はすでにじりじりと刺すように痒み、赤く腫れ上がり始め、息苦しさも出ているようだった。

茉知は遠くから、その様子をただ静かに見つめていた。それからゆっくりと2階へ上がり、薬を取ってきて無言で彼の手に渡す。

将吾は慌てて薬を飲み下し、次第に呼吸を落ち着かせていった。ふと、先ほど茉知が咄嗟に口にした言葉を思い出し、彼の胸の中にひやりとした冷たいものが走った。

「茉知。俺がマンゴーアレルギーだって、なんで知っていたんだ。もしかして……何か思い出したのか」

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