月だけが見ていた第2話
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2週間ほど前、晴香のスマホに見知らぬ番号からしきりに電話がかかってきていた。
その電話に出てみると、相手は横山家の夫人だと名乗り、「あなたの運気が素晴らしいから、植物状態の息子とぜひ結婚してほしい」と言ってきたのだった。それに、見返りとして、恵に合う骨髄を必ず見つけるとも約束してくれた。
その時は詐欺か何かだと思って、すぐ着信拒否設定にした。
でも誠が唯一適合する骨髄を健吾にあげてしまった今、こんな馬鹿げた話しか、晴香と恵には残っていない。
本来であれば、2週間後は自分と誠の婚約パーティー。
でも今は、すべてをめちゃくちゃにしてやりたかった。
晴香は夜中過ぎまで恵のそばに付き添い、容態が落ち着いたのを確認してから、ようやく家路についた。
ドアを開けると、玄関にはハイヒールが乱雑に置かれていた。
さらに部屋へ入っていくと、黒いレースのストッキングがカーペットの上に脱ぎ捨てられている。
リビングのソファでは、服をはだけさせた美優が誠の膝にまたがり、彼の首に腕をきつく絡ませていた。
「誠、お父さんを助けてくれてありがとう」甘い吐息を誠の喉仏に吹きかけながら、彼女は囁く。「今から、たっぷりお礼させて」
「ねえ、まだ怒ってる?」美優は潤んだ瞳で彼を見つめ、指先でその鎖骨をなぞった。「もう二度と離れないから。だから、私を許して?」
ホテルでドア越しに聞こえていたあの光景の続きが、まさか自宅で堂々と繰り広げられるなんて。
晴香は、鈍器で殴られたような衝撃を胸に感じ、思わず手にしていたバッグを床に落としてしまった。
誠は、熱いものにでも触れたかのように美優を咄嗟に突き放すと、慌ててシャツのボタンを留めながらソファから飛び上がった。
「晴香!これは違うんだ!誤解なんだ!」
彼は顔を真っ赤にしながら、しどろもどろに弁解している。「俺がこいつを心底憎んでることは、お前も知ってるだろ?だから、今さら何かあるはずがない!」
晴香はその場から動けずにいた。指先から血の気が引いていくのを感じる。
そういえば、8年前もこの男は同じようなことを言っていたっけ。
当時、大学を卒業したばかりの誠は起業に失敗し、数千万円の借金を抱えていた。
そんな貧乏暮らしに耐えられなくなった美優は、彼のなけなしの貯金をすべて持ち去って、忽然と姿を消したのだった。
そして、冷たい雨が降る冬の夜、バーの裏口で泥酔していた誠を家に連れ帰ったのが晴香だった。
彼は晴香の手を握り、子供のように泣きじゃくった。美優は世界で一番ずるい女だ、死んでも許さないと言いながら。
その後、立ち直った誠は、鬼気迫る勢いで晴香に猛アタックをかけてきた。
あの頃は、冬になっても厚いブーツが買えないほど本当に貧しかった。
薄いスニーカーから雪が染み込み、足の芯から凍えそうだった晴香を、誠は黙っておんぶしてくれた。雪に足を取られながらも、40分もかけて会社まで送ってくれたのだ。
当時、彼は借金返済のためにフードデリバリーのバイトをしていた。丸一日脚がパンパンになるまで働いていたのに、稼ぎはほんのわずかしか無かった。
手袋は擦り切れ、凍えて紫色になった指先が覗く。それでも誠は、いつも遠回りして焼きたての焼き芋を晴香に買って帰ってきてくれていた。
そして、彼は長年吸っていたタバコをきっぱりとやめた。さらに、暮らしに少し余裕ができると、晴香が何気なく「バラが好き」と言ったのを覚えていてくれたのか、毎朝30分早く起きて、市場で一番きれいなバラの花束を買ってきてくれるようになった。
他には、しつこく言い寄ってくる御曹司を断り、路地裏で待ち伏せされた時のことだった。
誠はすぐに駆けつけてくれ、血走った目で男たちに殴りかかった。無我夢中で相手を叩きのめしていたけれど、彼自身もひどく殴られ、2週間も入院することに。
退院の日、誠は段ボール箱を抱えて晴香の前にひざまずいた。
ダンボールの中身は、美優が残していった思い出の品々だった。
色褪せたペアブレスレット、書きかけのラブレター、誠が初めて彼女に贈ったネックレス、など。
誠は晴香の目の前で、それらをめちゃくちゃに壊すと、こう言った。「晴香、これからは俺の心にはお前一人だけだ。
俺の心に、美優はもういない。信じてくれ。だから、これからずっと、俺と一緒にいてくれないか?」
あの日、晴香は泣きながら頷いた。この恋という賭けに、自分は勝ったんだ、と。
この人が心から自分を愛してくれるなら、どんな苦労も報われる。そう信じていた。
なのに彼が立派な社長になり、かつて愛していた女が戻ってきた今、あの日の誓いは全部、ただの戯言になってしまったのだった。
晴香が黙っているのを見ると、誠は突然、美優のすねを蹴りつけた。「俺の婚約者が帰ってきたんだ。さっさと出ていけ!」
痛みに顔を歪めてよろめく美優の目には、みるみる涙が溜まっていく。
「誠、私に気持ちがないなんて嘘。だって、父を助けてくれたばかりじゃない……」
「可哀想だと思っただけで、お前とは何の関係もない!」
誠は、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。それは美優に、いや、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。「美優、よく聞け!俺はもうすぐ晴香と結婚するんだ。二度と邪魔なんかするな!」
美優は唇を噛みしめ泣きながら、靴を手に持ってはだしで飛び出していった。
誠は床からバッグを拾うと、駆け寄ってきて晴香を強く抱きしめた。
「なあ、晴香。怒らないでくれ。手術の件は、俺があいつにした最後の約束なんだ。だからこれで、もうあいつとは完全に終わり。二度と会わない」
誠は、少しも悪びれる様子もなく、堂々とそう言った。
でも、晴香はもう彼の言葉を聞くのにうんざりしていた。
美優が帰国してから、誠の「最後」という言葉を、一体何度聞かされただろうか。
おそらく、彼本人でさえもう覚えていないのだろう。
もう言い訳を聞く気力もなく、晴香はそっと誠を押し返しす。「わかった。私は、先に部屋に戻って休むから」
「俺も行く」
誠はすぐ後ろからついてくると、晴香の腰を強く抱きしめ、頭に顎を乗せた。いつものように、下手な鼻歌で機嫌を取ろうとしてくる。
そして、真夜中。突然スマホの着信音が鳴った。
誠は彼女の手をそっとどけると、音を立てないようにバスルームに入り、内側から鍵をかける。
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