月だけが見ていた第1話
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工藤晴香(くどう はるか)はホテルのスイートルームの前に立っていた。中から漏れてくる息づかいが、彼女の耳に容赦なく届く。
「美優。こっちが大変になったときはさっさと消えたくせに、今さらどの面さげて戻ってきたんだ?」そして、中から聞こえる松浦誠(まつうら まこと)の声には、刺々しい怒りがこもっていた。
「お願い、父を助けて……そのためなら、私、何でもするから」それに答える、池田美優(いけだ みゆ)の声は、涙で震えていた。
衣類が床に落ちる音に混じって、誠の笑い声が聞こえてくる。「じゃあ、ここで俺と寝ろって言ったらお前は寝るのか?」
その場を動けずにいた晴香だったが、ベッドがきしむ音が聞こえてくると、ふらつく足取りでホテルを後にしたのだった。
その日の夜、探偵から美優の父親・池田健吾(いけだ けんご)のカルテが送られてきた。
病名は、悪性リンパ腫。骨髄移植が必要で、完治率は80%とのことらしい。
その時ドアが開いた。知らない香水の香りをまとわせた誠が気まずそうな顔で入ってくる。「晴香。恵ちゃんの骨髄のことなんだけど、待ってもらわなくちゃいけなくなったんだ。ドナーの気が急に変わっちゃって……」
晴香は、カルテを彼の顔に叩きつけた。「私の妹の命と引き換えに、あの女と寝たってわけ?本当、最低!」
* * *
工藤晴香(くどう はるか)と松浦誠(まつうら まこと)のことを知る人々は、晴香のことをあまりよく思っていなかった。
なぜなら、誠が元カノの池田美優(いけだ みゆ)と別れたとたん、すぐさま彼と一緒になったから。
でも、以前は誠のほうが晴香の前でひざまずいて、目に涙を浮かべながら「一生お前を守る」と誓ったなんて誰も知らないのだ。
「泥棒猫」なんて言われ、時には汚い言葉で罵られもした。それでも彼女は、8年間ずっと歯を食いしばって耐えてきたし、後悔なんて少しもしていなかったのに。
そんな気持ちが変わったのは、婚約パーティーの3日前のことだった。晴香はホテルのスイートルームのドアの前に立ち、中から聞こえてくる聞くに堪えない声に耳を澄ましていた。
中では、誠が美優の上に馬乗りになり、その首を力いっぱい締めている。
「美優。こっちが大変になったときはさっさと見限ってくれたくせに、今さらどの面さげて戻ってきたんだ?」
美優は頬を上気させ、首元には赤い痕が滲むように広がっていた。涙をいっぱいに溜めたその瞳は、守ってやりたくなるほど痛々しい。
「誠、私が悪かったわ……本当に後悔してるの。
お願い、父を助けて。そのためなら、私、何でもするから」
誠が彼女の唇の端を指でなぞる。その目の奥では、汚い欲望が渦巻いていた。
「じゃあ、ここで俺と寝ろって言ったらお前は寝るのか?」
美優は何も答えなかった。しかし、ただうつむいて、一枚、また一枚と服を脱いでいく。
服が床に落ちる音と、誠の荒くなっていく息づかいが混じり合い、ドアの隙間から漏れ、容赦なく晴香の耳に入ってきた。
そして、最後に聞こえてきたのは、ベッドが激しくきしむ音と男の醜く低い笑い声。「美優、覚えとけよ。先に俺を誘ったのは、お前だってことをな」
中から聞こえる喘ぎ声はまるで毒針のように、晴香の全身にびっしりと突き刺さる。
足も鉛でも詰められたみたいに重くなり、その場から動けなくなった。
晴香は自分がどれくらいその場に立っていたか分からなかったが、なんとかこわばった体を動かし、おぼつかない足取りでホテルを出ると、すぐに探偵に電話をかけた。
その日の夜、彼女の目の前に置かれていたのは、美優の父親・池田健吾(いけだ けんご)のカルテだった。
病名は悪性リンパ腫。骨髄移植が必要らしい。
なるほど、そういうことだったのか。どうして美優があんな屈辱を受けいれたのか、晴香はこの時初めて理解した。
カルテに書かれた【完治率80%】の文字をぼんやりと見つめていると、ガチャリ、と鍵が開く音がした。
誠が帰ってきた。彼の体からは、自分のではない女物の香水の匂いがしている。晴香の顔を見る誠の目には、申し訳なさそうな色が浮かんでいた。
「晴香、すまない。骨髄の件なんだけど、ちょっと問題が起きて……
だから、恵ちゃんの骨髄移植、少し待ってもらわないといけなくなったんだ。ドナーの気が急に変わっちゃってさ」
工藤恵(くどう めぐみ)は、晴香の妹であり唯一の家族で、もう1年も白血病と闘っている。つらい治療で体がボロボロになっていた中、やっと見えた希望の光だったのに。誠の言葉によって、その小さな光は無情にもかき消された。
つまり、彼は晴香の妹の命と引き換えに、美優との一晩を得たのだった。
晴香はスマホを握りしめる。誠を見上げる彼女の目は、まるで氷の刃のように鋭い。
「嘘つき。
それって、池田さんのためなんでしょ?」
誠は黙り込む。それは認めたも同然だった。
「今回は彼女に譲るから」と、彼はこともなげに言う。「恵ちゃんのドナーは、俺がまた探すよ」
その瞬間、晴香の中でたまりに溜まっていたものが爆発した。
彼女は、恵に出されたばかりの危篤通知書と健吾のカルテを、誠の顔に叩きつける。
「彼女のお父さんはリンパ腫なの!放射線治療だけでも8割以上は治る病気なんだよ!」
問い詰める晴香の声は震えている。「なんで、恵のたった唯一の希望を、あの人たちに奪われなきゃいけないの?」
誠は彼女の肩を押さえた。
「少しは落ち着けって。美優には父親しか家族がいなんだよ。だから、ほんの少しのリスクだって負わせるわけにはいかなかった。
それに言っただろ?恵ちゃんのことは俺がなんとかするって。死なせたりなんかしないから」
晴香は目の前の男を見つめる。体中の熱がすうっと引き、内側から凍りついていくような感覚がした。
彼女はふっと笑う。「誠、知ってる?恵も、私にとってたった一人の家族なんだよ?」
しかし、誠は晴香を抱き寄せて優しく囁いた。「でも、お前には俺がいるだろ?
晴香、これはずっと前に美優と約束したことなんだ。だから、俺を責めないでくれ、な?
このことが全て終わったら、彼女とは今後一切会わないって約束するから」
自分を宝物みたいに大事にしてくれるはずだって、昔はこの男を疑うことなんてなかった。それに、恵のことも守ってくれるって、信じていたのに。
でも、元カノが戻ってきた途端、そんな約束は全部ただの冗談になってしまったらしい。
美優の父親にわずかな危険も冒させないために、彼は自分の妹が死んでいくのを、ただ黙って見ていられるというのだから。
晴香は誠を突き飛ばした。「もしその骨髄を、私が絶対に手放さないって言ったらどうする?」
そう言って、彼女はバッグをつかむと外に飛び出し、タクシーを拾って病院へと急ぐ。
健吾が手術室に入る前に止められれば、恵はまだ助かるはずだ。
息を切らしながら手術室の前にたどり着くと、健吾の手術開始まであと30分だと知らされた。晴香はへなへなと壁にもたれかかり、なんとか息を整える。
「この骨髄は、もともと私の妹のために用意されたものなんです」
彼女は通りかかった医師の腕をつかみ、途切れ途切れの声で訴えた。「だからお願いします……他の人には使わないでください……」
医師は感情のない目で晴香を見下ろす。「申し訳ありません、工藤さん。松浦社長から、池田さんを優先するようにと指示を受けていますので」
膝から力が抜け、晴香はどさりと床に崩れ落ちた。
膝立ちのまま執刀医ににじり寄り、その足にすがりつく。「先生、お願いします……この骨髄がないと、妹が死んじゃうんです……」
しかし、医師たちは何も言わなかった。ただ、一斉に彼女の後ろに視線を向けただけだった。
いつのまにか誠が来ていた。彼は晴香を無理やり床から立ち上がら、その場から離そうとした。
しかし、晴香の目に手術室へと運ばれていく健吾の姿が映ると、彼女は半狂乱で手術室のドアの淵にしがみつき、絶対に手を離そうとしなかった。
「いやあぁぁ――」
悲痛な叫び声が廊下に響きわたる。誠は慌てて晴香の口を手でふさいだ。
「晴香、手術の邪魔をするな」彼の声には何の感情もこもっていない。「お前が欲しいものは、なんでもやるから。
でもこれは、俺が美優に約束したことなんだ。だから、お前のものじゃない」
手術中のランプがついた。その瞬間、晴香の全身から力が抜け、体がくたりと床に崩れ落ちる。
固く閉ざされたドアを見つめながら、彼女は笑い始めた。それも、涙を流しながら笑っている。「もう離して。大丈夫、もう騒がないから」
そう言われた誠は手を離すと、彼女を床から立ち上がらせた。
彼の目に一瞬だけ、哀れむような色が浮かぶ。そして、ぐずる子供をなだめるみたいに、晴香の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「いい子だから、先に家に帰りな。こっちが終わったら、俺もすぐに帰るからさ」
しかし、晴香は家には帰らなかった。
彼女はそのまま集中治療室に向かった。ガラス越しに、痩せ細った姿の妹を見つめる。
ベッドに横たわっている恵は、雪のような真っ白い顔色をしていた。体にはたくさんのチューブがつながれ、胸のかすかな上下運動も、ほとんど見えないくらいだった。
静まり返った廊下で、晴香はこみ上げる涙をぐっとこらえ、スマホにある番号を打ち込む。
「横山さん」電話相手の名を呼ぶ晴香の声は、感情を失ったように平坦だった。「息子さんとの結婚のお話、お受けさせていただきます。
なので、約束した骨髄の件、必ず1週間以内に見つけていただけますか?」
電話の向こうから、笑みを含んだ声が返ってきた。「ええ、いいわ。1週間後迎えの者を行かせるから」
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