月だけが見ていた第3話
この話は約2433字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
しかし、恵が入院してから晴香はずっと眠りが浅かった。
だからスマホが一度鳴っただけで、すぐに目を覚ましてしまっていた。
バスルームのドアには、男の影がぼんやりと映り、中からは美優の甘ったるい声が聞こえてくる。「誠、なんだか停電しちゃったみたいなの。一人でこわいから、今すぐ会いに来てくれないかな?」
誠の声には、いら立ちが滲んでいた。
「もう電話してくるなって言ったよな?」
しかし、美優は柔らかい声で続ける。「わかってる。晴香さんが怒るのが心配なんでしょ?でも、大学のときの停電、覚えてる?私、夜はあんまり目が効かないから、もう少しで階段から落ちて死ぬところだったよ。
今夜、もしまた何かあったら……」彼女はそこで言葉を切り、声を震わせた。「私が死ぬだけならいいの。でも、病院のお父さんを面倒見るのは私しかいないから……」
静かな夜、誠が「面倒なやつ」と小さく毒づき、「わかった、すぐ行くから待ってろ」と答える声は、晴香の耳にはっきりと聞こえてきた。
誠がバスルームから出てくると、晴香はベッドに座っていた。
時計の針は、午前2時を指している。
誠の顔に一瞬だけ動揺が浮かぶ。しかし、慌ててシャツを羽織り、彼女から目をそらして言った。「晴香、ごめん。会社で急用ができたんだ。だから、先に寝てて。待ってなくていいから」
晴香は彼を見ようともせず、ただ静かに尋ねる。「明日、あなたの実家で食事する約束だったよね。それはどうするの?」
誠の両親は、ずっと晴香を良く思っていなかった。とくに誠の仕事が軌道に乗ってからは、息子には不釣り合いだとあからさまに見下すようになっていた。
だから、彼の実家に行く度いつも嫌がらせを受けた。しかし、そのときは誠がいつも間に入って守ってくれた。
でも、今回は……
ネクタイを結ぶ誠の手は一瞬止まったが、彼の声には迷いがなかった。「行くさ。心配するな、すぐに戻るから」
玄関のドアがカチャリと閉まると、庭で車のエンジン音がせわしなく鳴り響く。
それからすぐに、スマホの画面が光った。
新着メッセージが一件、表示されている。
【ねえ、見た?私が呼べば、彼はいつでも飛んできてくれるの】
【せっかくおやすみのところ邪魔しちゃって、ごめんね】
晴香は顔をしかめ、スマホの画面をオフにした。
送り主は、考えなくてもわかる。美優からの挑発だ。でも、今の晴香にとって、そんなことはもうどうでもよかった。
どうせ、もうここを出ていくのだから。
誠のことが欲しいなら、美優にでもくれてやればいい。
晴香は寝室で一晩中座ったまま朝を迎えたが、夜が明けても誠は帰ってこなかった。
彼女は重い体をなんとか起こすと、ファンデーションで目の下のクマを隠し、服を着替える。そして、一人で車を運転して誠の実家へと向かった。
数日後に控えた婚約パーティーのことなんて、もうどうでもよかった。ただ一つ気がかりなのは、亡くなった母親が妹に遺した水晶のペンダントのこと。以前、誠の母親・松浦茜(まつうら あかね)が妹のお見舞いに来た、それを持っていってしまったのだ。
その時は、いつか同じ家族になるんだし、と急いで返してもらおうとは思わなかった。しかし、茜はそれを半年も我が物顔で身につけ、返す素振りなど一切ない。
もうここを去るのだから、妹の大切なものを取り返さなくてはならない。
そして、今日は誠がいないから、彼の両親が晴香にいい顔をするはずもなかった。
リビングに座った茜は、横柄な態度で言う。「晴香、あなたはもう何年も誠の家で暮らしてるでしょ?食べ物も服も、全部誠のお金で。だから結納金なんて、払わなくていいわよね?」
晴香は言い返すのも面倒だったので、視線も上げずに答えた。「ご自由にどうぞ」
「なにその態度は!」茜がテーブルをバンと叩く。「もうすぐ私のことも『お母さん』って呼ぶことになるのに。未来の姑に向かって、そんな口の利き方。誠がいつもあなたの味方だからって、私が何もできないとでも思ってるの?」
晴香はぐっと息を飲み、なんとか喉までこみ上げてくる苦い思いを抑え込む。「誠は今日ここに来ていませし、婚約の話だって、どうなるかわかりません。それに、私が今日ここに来たのは、母の形見の水晶のペンダントを返してもらいたかったからなので」
茜はとっさに首から下げたペンダントを手で覆い、不機嫌さを全面に出す。「これは、あなたが私にくれたものでしょ?一度あげたものを返せだなんて、そんな話があるわけないじゃない!
まだ嫁にもなっていないくせに、なんて生意気な。いい加減にしなさいよ!」
意地悪い言葉が耳元でうるさく響き、晴香はどんどん頭が重くなっていくのを感じた。
「おばさん。元々は、数日お貸しするというお約束でしたよね?」なんとか、冷静さを保つ。「返してほしいと、ずいぶん前からお伝えしているはずですが」
もともと品のある育ちではない茜は、とうとう床にへたり込み、大声でわめき始めた。「なんてめちゃくちゃなの!まだ嫁入りもしてない女が、私たちを脅すなんて!
早く誠に電話して!あの子が結婚しようとしてるのが、どんな女か思い知らせてやるんだから!」
大げさな泣き言が終わるか終わらないかのうちに、誠本人が勢いよく部屋に駆け込んできた。
彼のシャツの襟は乱れ、首筋にはうっすらと赤い痕がついている。それは誰の目から見ても、かなり生々しいものだった。
しかし晴香はすでに松浦家の使用人たちによって、両肩をがっちりと押さえつけられ、茜の前に無理やりひざまずかされていた。
手加減を知らない数人の力で、晴香の膝はすでに赤く腫れ上がっている。
誠の姿を見た瞬間、痛みと悔しさが堰を切ったようにあふれ出し、晴香は声を震わせた。
「誠……私たち、ここまで一緒にやってきたのに。それなのに、あなたの家族はまだ、私にこんな仕打ちをするの?」
しかし誠は、その場に立ち尽くしたまま、深いため息をついただけだった。
「晴香、こっちは仕事で疲れてるんだ。これ以上邪魔しないでくれるか?」
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