昨日を脱ぎ捨て、自由の海へ第2話
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電話の向こうで小林先生は一瞬だけ沈黙し、やがて温かくも確信に満ちた声で答えた。
「もちろんですとも、唯織さん。ようやく決心がついたのですね。ポストはずっと空けてあります。いつでも、遠慮なくいらっしゃい」
決心がついたのだろうか。唯織には分からなかった。
ただ、先ほど下の庭で繰り広げられた光景を目の当たりにした瞬間、心の中で何かがパキリと音を立てて壊れたことだけは、はっきりと分かった。
それはもう、二度と元には戻らない。
電話を切ると、唯織は冷たい床の上に力なく滑り落ちた。
小林先生は彼女の主治医だった。八年前、生死の境をさまよう状態で病院に運び込まれた彼女の背中は、焼傷面積の二割に及ぶ重度の熱傷に覆われていた。
傷口を洗浄し、壊死した組織を取り除く処置のたびに、生きたまま身を削がれるような地獄の苦しみが全身を突き抜けた。
小林先生はそんな彼女を支え、ことあるごとに外の世界へ踏み出すよう励まし続けてくれた。傷跡はいずれ薄くなる。人生を過去という名の檻に縛り付けてはいけないのだ、と。
「もう少しだけ待って。千隼が落ち着くまで。私が、もう少しマシになったら……」
彼女はそう自分に言い聞かせ続けてきた。
彼女はそっと、背中にある傷跡の縁をなぞった。
かつては、この傷こそが二人の愛の証であり、死に物狂いで愛する人を守り抜いた勲章なのだと自負していた。
だが今指先に触れるのは、氷のように冷たく硬い皮膚の感触だけ。その下には、とうの昔に膿み、腐り果てた想いが無残に横たわっている。
観光シーズンと天候の影響で、航空券は一週間後になった。
それでいい、と唯織は思った。この七日間で、丁寧にお別れをしよう。
千隼にではなく、一人の男に人生のすべてを預け、惨めに愛を乞うていた自分自身に対して。
スマホが再び光った。
千隼からのメッセージだ。
【薬は星奈に渡した。余計なことは考えず、早く寝ろ】
なんと簡潔で、上司が部下に出す指示のような事務的な文面だろう。
唯織は返信しなかった。
すでに深夜だが、眠気は来ない。彼女は物干しロープにかけてある服を取り込もうと、階下へ降りた。
庭に足を踏み入れた瞬間、隅の空き地から闇を切り裂くゴォッという不気味な音とともに、鮮烈な火柱が夜空へと燃え上がった。
キャンプファイヤーだ。
唯織の呼吸が一瞬止まり、巨大な恐怖が彼女を捕らえた。
彼女は悲鳴を上げ、無我夢中で後ずさった。そのままドア枠に背中を激しく叩きつけられ、古傷が弾けるような激痛が全身を駆け抜ける。
彼女の叫び声は、和やかな笑い声に満ちていた庭の空気を無残に引き裂いた。
火を囲み、星奈を主役として盛り立てていた千隼と友人たちが、一斉にこちらを振り返った。
千隼がすぐさま立ち上がり、駆け寄ってくる。
「唯織?どうして降りてきたんだ」
「なんで……火を点けたの?」
唯織の声は、自分でも制御できないほど小刻みに震えていた。膝の震えは止まらず、今にも崩れ落ちそうだ。
肌を舐める劫火の熱さ、鼻を突く肉の焼けるような焦げ臭い、そしてその後に見た両親の冷たい骸。抑え込んでいた恐怖の記憶が、火光とともに溢れ出してきた。
千隼が手を貸そうとしたが、彼女は反射的にそれを拒絶した。
差し出された彼の手は行き場を失い、気まずく宙を泳いだ。
「星奈がキャンプファイヤーを体験したいって言うからな。ちょうど奏翔たちも来たし、景気づけだ」
千隼は説明したが、その口調は淡々としており、単なる事実を述べているに過ぎなかった。
「お前が降りてくるとは思わなかった」
「ごめん、ごめん!」
星奈が小走りで駆け寄ってくる。その顔は申し訳なさそうに歪んでいた。
「全部私のせいだ。こんなに火を怖がるなんて知らなかったの……
せっかくみんなが集まったんだから、キャンプファイヤーをして盛り上がりたかっただけなの。怖がらせちゃって、本当にごめん」
彼女はそう言うと、火を消そうと駆け出した。
「今すぐ消すから!」
「いい。消さなくていい」
千隼がそれを遮った。
「せっかく点けたんだ。わざわざ消す必要なんてないだろ」
唯織は、じっと千隼の瞳を見つめた。
八年前、あの地獄のような炎がすべてを焼き尽くした後、集中治療室に横たわる自分を、目元を真っ赤に腫らして食い入るように見つめながら、「一生お前を守る」と誓った、あの瞳。
あの瞳に湛えられていた、胸を締め付けるような痛々しさは、偽りのない真実だった。
その後、このゲストハウスに移り住んだばかりの頃。
客の一人が夜にキャンプファイヤーをしたいと言い出した時、千隼は迷わず断った。「彼女が火を怖がるから」と。
あの時の庇護も、また本物だった。
だというのに今は、彼女が火に対して重度のトラウマを抱えていることを知りながら、その火光が彼女に皮膚の焼ける臭いや両親の死を想起させることを知りながら、星奈が「体験したい」と言っただけで、いとも簡単に禁を破ったのだ。
「……あなたが許可したのね?」
唯織は掠れた声で問うた。
千隼は視線を逸らした。
星奈が慌てて取りなす。
「唯織さん、よかったら一緒に遊ばない?火から少し離れていれば、大丈夫だよ」
「いいえ」
唯織は彼女の言葉を遮り、千隼の手を振り払った。
「皆さんで楽しんで」
唯織は階上へ戻った。背筋を真っ直ぐに伸ばしていたが、その一歩一歩は、まるで研ぎ澄まされた刃の上を歩いているかのようだった。
背後から、星奈の潜めた声が聞こえてくる。
「唯織さん、怒っちゃったかな?私がキャンプファイヤーなんて言い出したせいだよね……」
続いて、千隼の友人の無神経な慰めが聞こえた。
「星奈ちゃん、自分を責めることないよ。君のせいじゃないんだから。
唯織は少し臆病なだけさ。放っておけばすぐ機嫌も直るよ」
そして、千隼の低く抑えた声が響いた。
「気にするな。少し頭を冷やさせればいい」
唯織は部屋のドアを閉め、ドアに背を預けてゆっくりと床に崩れ落ちた。
窓の外では火が踊り、楽しげな笑い声が微かに届いてくる。
彼女は不意に思い出した。ずっと昔、満天の星空の下で、二人きりで小さな焚き火を囲んだことがあった。
まだ怪我を負う前、両親も健在だった頃。千隼は彼女の手を握り、薪のくべ方を教えてくれた。
火の光が彼の若々しい顔を照らし、その瞳の中には彼女の姿が映っていた。
後に、火は彼女からすべてを奪った。
そして今、彼は別の女の子のために、再びあの忌まわしい火を灯した。
唯織は重い体を引きずるようにして立ち上がり、鏡の前へと歩んだ。
彼女は背を向け、上着の裾をまくり上げた。
鏡の中に映し出されたのは、肩甲骨から腰にかけて醜く這いずり回る、凄惨な火傷の痕だった。
ひきつり、歪み、斑に変色した皮膚。それが彼女の背中に、拭い去れない絶望のように盤踞している。
これは彼女が愛のために支払った代償であり、この八年間の不安の根源でもあった。
だが今、この傷を見つめていると、不意に、ある思いが芽生えた。もはやこの傷跡は、一生自分を縛り付ける枷であってはならないのだと。
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