昨日を脱ぎ捨て、自由の海へ第1話
この話は約3405字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
「千隼、本当に唯織と結婚する気なの?なら、星奈はどうなるのよ」
その言葉を聞いた浅井唯織(あさい いおり)の手がドアノブの上で止まった。
「もう八年だ。千隼、君は唯織に対して、もう尽くすだけ尽くしただろう」
佐藤奏翔(さとう かなと)が口を挟む。
「でも、星奈は別だ。君が毎年二ヶ月もわざわざ遠出するのは、彼女に会って息を抜くためじゃないのか?
受験が終わるなり、君を追ってはるばるやってきたんだ。その想いを無下にできるのかよ」
「唯織を一生支えると約束したんだ。食言はできない」
瀬戸千隼(せと ちはや)の冷ややかな声が響く。
「これは俺が唯織に背負っている負い目だ。だが、星奈はまだ若くて世間を知らない。何も分かっていない星奈を、傷つけるわけにはいかないんだ」
唯織は全身の血が凍りつくのを感じた。
羽田星奈(はねだ せな)。一ヶ月前、大きなスーツケースを引いてふらりとゲストハウスに現れたあの女の子。
あの時、千隼は彼女のことを「友人の娘が受験を終えて、このところに遊びに来ただけだ」と説明していた。
唯織は爪を手のひらに深く食い込ませた。まるで一瞬にして魂が抜け落ちた抜け殻のように、その場に釘付けになり、身動き一つ取れなくなった。
* * *
「千隼、本当に唯織と結婚する気なの?なら、星奈はどうなるのよ」
その言葉を聞いた浅井唯織(あさい いおり)の手がドアノブの上で止まった。
「もう八年だ。千隼、君は唯織に対して、もう尽くすだけ尽くしただろう」
佐藤奏翔(さとう かなと)が口を挟む。
「でも、星奈は別だ。君が毎年二ヶ月もわざわざ遠出するのは、彼女に会って息を抜くためじゃないのか?
受験が終わるなり、君を追ってはるばるやってきたんだ。その想いを無下にできるのかよ」
「唯織を一生守ると約束したんだ。食言はできない」
瀬戸千隼(せと ちはや)の冷ややかな声が響く。
「これは俺が唯織に背負っている負い目だ。だが、星奈はまだ若くて世間を知らない。何も分かっていない星奈を、傷つけるわけにはいかないんだ」
唯織は全身の血が凍りつくのを感じた。
羽田星奈(はねだ せな)。一ヶ月前、大きなスーツケースを引いてふらりとゲストハウスに現れたあの女の子。
あの時、千隼は彼女のことを「友人の娘が受験を終えて、A県に遊びに来ただけだ」と説明していた。
唯織は爪を手のひらに深く食い込ませた。まるで一瞬にして魂が抜け落ちた抜け殻のように、その場に釘付けになり、身動き一つ取れなくなった。
ここ数年、毎年春と秋になると、千隼は二ヶ月間A県を離れていた。
仕事の打ち合わせだとばかり思い込んでいたが、本当は星奈に会いに行っていたのだ。
工藤大町(くとう おおまち)の声が一段と低くなった。
「唯織は気の毒だが、これほど長い年月が経ったんだ。たとえ罪滅ぼしだとしても、もう十分だろう?」
罪滅ぼし。
その言葉は刃となって、唯織の心臓を真っ向から貫いた。
八年前のあの火災を思い出す。彼女は千隼を突き飛ばし、自らの背中全体に重度の火傷を負った。
知らせを受けて夜通し車を走らせた両親が、大型トラックに追突され、形見一つ残らないほど無惨な姿でこの世を去ったことも。
一夜にして、彼女は健康も両親も、すべてを奪われた。残されたのは千隼と、「一生守る」というあの日の約束だけだった。
今やあの約束は、単なる「罪滅ぼし」に成り下がってしまったのか。
唯織は無意識に胸を押さえた。
階下での会話はまだ続いている。
「じゃあ、君は唯織を愛しているのか?」
奏翔が問いかける。
バルコニーは長い沈黙に包まれた。千隼は答えなかった。
唯織の瞳から溢れ出した涙が、焼けるような熱さを伴って頬を滑り落ちた。
大町が溜息をついた。
「俺たちには分かるよ。星奈を前にした時の君は、唯織といる時とは……まるで別人のようだ」
その一言が、唯織が必死に守り続けてきた自分への欺瞞を、粉々に打ち砕いた。
ああ、そうだ。あまりにも、違いすぎる。
先月の両親の命日。彼女が墓地で日が暮れるまで待っていた時、ようやく駆けつけた千隼からは、これまで一度も嗅いだことのない、甘く清らかな香水の匂いが漂っていた。
「立て込んでいて、つい忘れた」
あの時、彼はそう言った。
付き合った記念日に用意した、冷めきった料理。
彼からのメッセージには、ただ短くこうあった。
【星奈の案内に連れ出している。帰りは遅くなる】
そして今朝。再診に付き添ってほしいと小声で頼んだ時、彼は一度は承諾した。しかし昼前になると「用事ができたから一人で行ってくれ」と断られた。
彼女は彼のために理由を探し続けていた。ゲストハウスが忙しいのだろう、客が多くて手が離せないのだろう、と。
今思えば、あの「用事」も、やはり星奈のためだったに違いない。
ドアが開き、冷気を纏った千隼が入ってきた。暗闇の中に立つ唯織を見て、彼は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。
「どうしてまだ起きてるんだ?」
「毎年、B県へ行っていたあの二ヶ月間は」
唯織の声が、自分でも驚くほど小刻みに震えている。
「星奈に会うためだったのね?そうでしょう?」
照明を点けようとした千隼の指先が、その言葉に凍りついたように止まった。
「そうだ」
彼は上着を脱ぎ、淡々と言った。
「だが唯織が考えているようなことじゃない。星奈はまだ子供だ。そんな風に――」
「子供?」
唯織は彼の言葉を遮った。
「十八歳にもなって、子供だっていうの?受験が終わるなり、あなたを追ってはるばるやってきた子供が?あなたが毎年欠かさず会いに行っていた子供が?」
千隼の表情が険しくなる。
「盗み聞きか?」
「盗み聞きでもしなきゃ、この八年間、自分がどれほど滑稽なピエロだったか気づけなかったわ!」
唯織の声が荒らげられ、背中の傷跡が再び火を噴いたかのように熱く疼きだした。
「今日の再診、あなたは用事があるって言ったわよね」
唯織は彼を凝視し、一言ずつ噛みしめるように問うた。
「その用事っていうのは、星奈の付き添いをすることだったの?」
千隼は沈黙した。その肯定にも等しい沈黙は、どんな刃物よりも鋭く彼女を切り裂いた。
その時、彼のスマホが鳴った。画面には「星奈」が表示されている。
千隼は唯織を一瞥すると、電話に出た。
「もしもし?」
「千隼」
電話の向こうから女の子の声が漏れる。
「耳がすごく痛いの。今日開けたピアスホールが膿んじゃったみたい。消炎剤の軟膏とか、持ってないかな?」
唯織はその場に釘付けになり、全身の血が引いていくのを感じた。
今日の再診に付き添えなかったのは、星奈のピアスを開けるのに付き合っていたからだった。
何年も前、唯織もアクセサリーショップのショーウィンドウを指さして、ピアスを開けたいとねだったことがあった。
千隼は眉をひそめて言った。
「やめておけ。痛いし、化膿しやすいから」
当時の彼女は、その言葉に胸を熱くしていた。彼は自分が痛い思いをするのを耐えられないのだと、それほどまでに大切にされているのだと、疑いもせずに信じ込んでいたのだ。
だが、今ようやく残酷な真実に気づいた。彼は彼女の痛みを案じていたわけではない。
ただ、彼女のためにその手間をかける気がなかっただけなのだ。
千隼は電話を切ると、唯織が常備薬を入れている引き出しを迷わず開けた。
慣れた手つきで探し出したのは、一本の消炎剤の軟膏。かつて千隼がわざわざ海外から取り寄せた輸入品で、唯織自身、もったいなくて滅多に使えなかったものだった。
「私の薬を星奈に渡すの?」
唯織の声は消え入りそうだった。
「明日、新しいのを買ってくる」
千隼は振り返りもせず答えた。
「少し頭を冷やせ。すぐ戻るから」
彼は薬を手に階下へ降りていった。
唯織は窓辺に歩み寄り、カーテンの隙間から外を覗いた。
下の庭では、星奈が顔を上げ、千隼に耳元を委ねている。千隼の指先は驚くほど慎重で、そこには慈しむような優しさが湛えられていた。
星奈が何かを言うと、彼は微かに微笑んだ。
その笑顔を、唯織はもう何年も見ていなかった。
彼女はじっとその光景を見つめ続けた。涙が枯れ、瞳が乾ききって痛み出すまで。
やがて静かに身を翻すと、バッグの奥底からスマホを取り出した。ずっと登録したまま一度もかけたことのない番号を呼び出した。
三度のコールの後、相手が電話に出た。
「小林先生、浅井唯織です」
彼女の声は、恐ろしいほどに凪いでいた。
「以前お話しくださったC市での仕事の件ですが。まだ間に合いますか?」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)