昨日を脱ぎ捨て、自由の海へ第3話
この話は約1716字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
翌朝早く、階下から星奈の弾んだ笑い声と、荷物を整える騒がしい音が聞こえてきた。
階段を下りたところで、唯織は出発の準備を終えた彼らと鉢合わせる。
星奈は唯織を見るなり、パッと顔を輝かせた。
「唯織さん!一緒に行きましょうよ。ずっと部屋にこもってたら息が詰まっちゃう!」
唯織は反射的に断ろうとした。
背中の傷が痛み、昨日ドア枠にぶつけた膝にも違和感があった。
けれど、彼女が口を開くより早く、千隼が言葉を被せた。
「一緒に行こう。星奈が来てほしいって言ってるんだ。気晴らしだと思ってな」
それは、星奈の興を削がないための命令だった。
彼にとって、唯織の意志など最初からどうでもよかったのだ。重要なのは、星奈が楽しめるかどうか。ただそれだけ。
唯織は数秒の沈黙の後、小さく頷いた。
「……分かった」
車内には、何とも言えない不協和音が漂っていた。
助手席に座った星奈は、道中ずっと興奮気味に質問を浴びせ、千隼は珍しく根気強く、その一つ一つに応じている。
窓際の後部座席で、唯織は流れる景色をただ黙って見つめていた。
かつて、助手席は彼女だけの特等席だった。空の雲を指さして「何に見える?」と尋ねれば、彼は笑って彼女の髪を撫で、「お前に似て、ちょっと抜けてるな」と答えてくれた。
だが今になって、千隼が道中、唯織にかけた言葉は、車を降りる際の一言だけだった。
「遅れずについてこい。具合が悪くなったら言え」
トレッキングが始まって間もなく、唯織は息が上がった。
長年の鬱屈とした生活と運動不足で、体力は底を突いている。険しい山道を進むにつれ、背中の古傷と膝の痛みが、容赦なく彼女を蝕んでいく。
気づけば、彼女は列の最後尾に取り残されていた。
誰も、振り返って彼女を待とうとはしなかった。
見知らぬ友人の一人が彼女を追い抜く際、社交辞令のように声をかけただけだ。
「唯織さん、頑張って」
千隼は当然のように先頭を歩き、星奈のために道を切り拓いている。
急斜面や足場の悪い場所では、ごく自然に星奈の手を取った。
「星奈、勝手に走るなよ」
大町が茶化すように笑う。
「じゃないと、千隼の目が釘付けになって、離れなくなっちゃうからな」
周囲から笑いが漏れる。
星奈は唯織をちらりと一瞥すると、大町に向かって「変なこと言わないで!」と拗ねたふりを見せた。
千隼はザックのベルトを調整するふりをして、聞こえていないかのように視線を落としたままだ。
唯織は足を止め、靴紐を結び直すふりをしてその場に屈み込んだ。けれど、指先が言うことを聞かずに震え、何度やり直しても結び目は完成しなかった。
ようやく、視界の開けた絶壁の展望台に到着した。
その時、唯織はすでに疲労困憊で、立っているのが精一杯だった。
汗が背中に滲み、衣類と古傷が擦れるたびに、火を噴くような灼熱の痛みが走る。
眼前に広がる絶景に、皆が次々と写真を撮る。
唯織は少し離れた場所で、風に乱れる髪を必死に押さえていた。
千隼がスマホを掲げる。そのレンズの先には、星奈の弾けるような笑顔があった。
二人の間に流れる、言葉を介さない阿吽の呼吸。それを、彼女はただ遠くから見つめることしかできなかった。
星奈がより良いアングルを探そうと、不用心に崖の縁へと数歩踏み出した。
「星奈、あまり端に寄るな!」
千隼が注意した、その瞬間だった。
事態は、音を立てて急転する。
星奈の足元の岩が不意に崩れ、彼女は短い悲鳴を上げ、仰け反るようにバランスを崩した。
「星奈!」
千隼の怒号が、吹き荒れる風を切り裂いた。
全員が立ち尽くす中、彼は獲物を狙う豹さながらの反応で、一瞬の躊躇もなく飛び出した。
間一髪のところで星奈の腕を掴んで引き寄せ、その身を盾にして彼女を強く抱きしめる。
そのまま、慣性に逆らわず安全な内側へと転がり込んだ。
だが、星奈が踏み外した斜面の岩が、彼らの激しい動きによって崩れ、礫となって転がり落ちた。
強風に煽られ、一歩後ろで立ち尽くしていた唯織は、逃げる間もなかった。容赦なく振り下ろされた一枚の岩が、彼女の膝をまともに強打する。
「あ……っ!」
鈍い衝撃と共に、目の前が真っ白になるほどの激痛が走った。膝の力が抜け、バランスを崩した彼女の体は、より切り立った急斜面へと滑落していった。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)
第4話は公式アプリで
当サイトでの試し読みはここまでです。アプリをインストールし、下のアプリ用コードを入力すると、この作品の第4話からそのまま読み進められます。
R84665- 下のボタンから公式アプリをインストールします(無料)。
- アプリを開き、「コードを入力」にこのコードを入れると、この作品が本棚に入ります。
作品ページへ戻る 当サイトに掲載しているのは試し読みの章だけです。