夫も息子も、喜んで差し上げます第2話
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婚姻届を出した日。会社での体裁を気にして、夏彦はしばらくの間、結婚の事実を伏せておこうと言った。
「お前はまだ入社したばかりで、社内でこれといった実績を上げていないだろう。
今の時期に俺の妻だと公表したら、この先、昇進したり給料が上がったりするたびに、あらぬ噂を立てられかねないからな」
その言葉は、確かに筋が通っていた。
だから、上司から嫌がらせを受けても、勤続年数が長いだけのお局社員から仲間外れにされても、コネ入社の社員に担当案件の手柄を横取りされても――私は歯を食いしばって耐え続けた。
どうしても腹の虫が治まらない時は、私たちの関係が公になる日を密かに思い描いた。
相手の立場によって態度を変えるあの人たちは、私が社長の妻だと知ったら、どんな顔をするだろう。
そう考えるだけで、少し気が晴れた。
それでも、どうしてもやりきれないことはあった。
鏡也を出産して職場復帰した後、上司は面談と称して私を呼び出し、授乳で張った胸をいやらしい目でじろじろ見るようになった。
すれ違いざまに、さりげなく体を押しつけてくることも、何度かあった。
我慢の限界に達した私は、家に帰って夏彦にそのことを訴えた。
しかし、彼は冷たい目を私に向け、突き放すように言った。
「考えすぎだ。お前は昔から自意識過剰なんだよ。
そういう被害妄想で、仕事に支障をきたさないでもらえるか。
会社では実力が全てだ。セクハラだと騒いで、特別扱いしてもらおうなんて考えるな」
私はその場に立ち尽くし、信じられない思いで彼を見つめた。
目の奥が熱くなり、悔しさに涙がこぼれそうだった。
その時ようやく気がついた。社長であり私の夫でもあるこの人は、私を信じてくれないし、私の味方にもなってくれないのだと。
それなら、自分の力でどうにかするしかない。
あの上司だって、役職は私のすぐ上というだけだ。絶対に昇進して見返してやる。その一心で、私は必死に仕事に打ち込んだ。
そしてついに、次期プロダクトマネージャーを決める社内選考で、私は審査担当者の八割から支持を得た。他の候補を大きく引き離し、確実にその座を勝ち取ったと信じていた。
しかし、結果発表の会議当日。
喜ぶ暇などなかった。
夏彦が、一人の女性を連れて会議室に入ってきたからだ。
彼女は全身をハイブランドで固め、何不自由なく育ったお嬢様のような雰囲気を漂わせていた。その表情には、無邪気とも言える傲慢さが透けて見えた。
夏彦は彼女を見つめ、珍しく口元に笑みを浮かべていた。
「紹介する。新しくプロダクトマネージャーに就任する、笠原紫苑さんだ」
会議室は静まり返った。
その場にいた全員が、驚いたように私を見た。
一方で私は、ただ呆然と夏彦を見つめていた。
彼女が新しいプロダクトマネージャーなら、私の努力は何だったの?
この選考のために、3ヶ月間休みなく交渉に奔走し、顧客を開拓してきた。
手がけた企画書は、どれも推敲を重ねて仕上げた。
鏡也を寝かしつけている時でさえ、頭の中は仕事のことでいっぱいだったのに。
夫である夏彦は、そんな私を間近で見ていた。
私がどれほど必死だったか、誰よりも知っているはずなのに。
私はもう堪え切れず、声を詰まらせながら口を開いた。
「あなた……実力で勝負しろって言ったじゃ――」
「誰に向かって言っている」
夏彦は険しい顔つきで私の言葉を遮った。
私を見るその目には、わずかな温かみもなかった。まるで赤の他人を見るような目だった。
「昇進できなかったのなら、自分の実力不足を反省しろ。社長である私に、馴れ馴れしい口を利くんじゃない。
余計なことを考えている暇があるなら、自分の仕事に集中するんだな」
その言葉に、会議室のあちこちから、くすくすと笑う声が漏れた。
普段から私を快く思っていない同僚たちが、こちらを見ながら口元を隠し、何かを囁き合っていた。
その顔には、隠そうともしない嘲りが浮かんでいた。
私はその場から動けず、顔から血の気が引いていくのを感じた。
恥ずかしくて、惨めで、消えてしまいたかった。
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