夫も息子も、喜んで差し上げます第3話
この話は約1301字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
数日後、会社のリフレッシュルームに入ろうとした時、同僚たちの話し声が聞こえてきた。
「社長って、笠原さんには本当に優しいよね。今日も車で会社まで送ってきてたよ」
「さっき社長室の前を通ったら、笠原さんに『会社で何か嫌なことがあったら、いつでも俺を頼ってくれ』って、すごく優しい声で言ってたのが聞こえたの」
「えっ、あの社長が?いつも隙がなくて近寄りがたいのに、あんな風に甘やかすんだ」
もう一人の同僚が、ニヤニヤしながら口を挟んだ。
「あんたたち、分かってないわね。笠原さんは社長の元カノなのよ」
私はドアの外で立ちすくみ、マグカップを持つ手に力を込めた。
心臓がドクンと跳ね、胸の奥が重く沈んだ。
「高校から大学まで、7年も付き合ってたんだって。学生時代をずっと一緒に過ごした仲なんだよ。
笠原さんがミラノに留学に行かなければ、別れてなかったんじゃない?」
「じゃあ、戻ってきたんだし、二人はよりを戻すんじゃない?」
「絶対そうでしょ。ふふっ、そしたら涼野さん、泣き喚くんじゃない?」
「自業自得よ。この前の会議でも、社長のこと『あなた』なんて呼んで、勝手に社長の奥さん気取りでいるんだから。社長の態度を見ればわかるじゃない。涼野さんを見るだけでもうんざりしてるって感じだったよ!」
私は壁にもたれかかった。震えが止まらず、全身が氷のように冷え切っていくのを感じた。
その時、はっきりと思い知らされた。
いつも冷静で、感情を表に出さない夫が、あんな風に誰かを優しく気遣うこともできるのだと。
周りの誰もが気づくほど、その人を大切にできるのだと。
ただ、その相手が私ではなかっただけだ。
その夜、家に帰ってから夏彦と大喧嘩になった。
私は、元カノへの未練を捨てられずにいる彼を責め立てた。
体裁を気にするふりをして、人前では絶対に私たちの関係を認めようとしないくせに。
それなのに、元カノのことは堂々と贔屓して、私が実力で勝ち取った役職まで彼女に与えるなんて。
どうして彼女のことになると、体裁なんて気にしなくなるのよ!
夏彦は言い返すことも、私の言葉を遮ることもなかった。
ただソファに深く腰掛け、グラスを傾けながら、声を荒らげる私を静かに眺めているだけだった。
最初から最後まで、表情ひとつ変えずに。
私が涙ながらに鬱憤をすべて吐き出し、ようやく言葉が途切れた時、彼は冷ややかに口を開いた。
「もう気は済んだか?
済んだのなら、鏡也を寝かせてこい」
外は激しい雨が降っていた。
叩きつけるような土砂降りの中、雷の音が窓ガラスを震わせた。
私は涙を拭い、鏡也を抱き寄せた。
ベッドに横たわらせ、背中をそっと撫でながら、寝かしつけようとした。
夫婦のいざこざに、子供を巻き込みたくはなかった。だから、息子の前では夫への不満を一言も口にしなかった。
だが、鏡也は私の赤く腫れた目を見つめ、小さな手を伸ばして、ぎこちなく涙を拭ってくれた。
「ママ、泣かないで。
ママが悲しいと、ぼくも悲しくなっちゃう」
私は息を呑んだ。
その温かい小さな体をきつく抱きしめると、堰を切ったように涙が溢れ出した。
この子を悲しませるわけにはいかない。
そう思うと、結局、離婚を切り出すことはできなかった。
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