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夫の後悔が届く頃、私は海を越えていた第2話

この話は約2126字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

車は、見覚えのあるリバービューの高層マンション前に静かに止まった。

千景と宗介が何もないところから働き、ようやく手に入れた家だった。

離婚をめぐって争ったこの1年、千景はホテルで暮らしていた。

戻りたくなかった。戻るのが怖かった。

それでも今日、すべてが変わってしまった部屋に足を踏み入れる勇気が、ようやく持てた。

指が、今も覚えている暗証番号を押した。

扉が開くと、冷え切った空気が流れ出してきた。室内はがらんとしていた。

玄関に立った千景の前から、宗介が暮らしていた痕跡はすべて消えていた。

よく着ていた黒いスーツも、無造作に置かれていた腕時計も、愛用していたホワイトティーのディフューザーもなかった。

空っぽの部屋には、千景の物だけが残されていた。

そのことは、以前にアシスタントから聞いていた。

宗介は半年前、私物をすべて、朋花と同棲しているマンションに運び出していた。

千景はゆっくりリビングに進んだ。

布張りのソファは、大学を卒業して1年目に、2人で長いあいだ貯金して買ったものだった。

その年の晩秋、急ぎのデザイン案件を引き受けた千景は、3日3晩ほとんど眠れず、目を真っ赤にして力尽きていた。

ソファに倒れ込み、宗介の胸に身を寄せて甘えた。

「疲れた。もうデザイン画なんて描きたくない」

宗介は千景を抱き、凝り固まった肩と背中をゆっくり揉みながら宥めた。

「よく頑張ったな、千景。描きたくないなら、もう描かなくていい。これからは俺が支える」

千景は目元をこすり、バルコニーへ出た。

2人掛けの籐椅子は、今も同じ場所にあった。風が吹くたび、編み目がかすかにきしんだ。

千景は静かに腰を下ろした。以前は数え切れないほどの夕暮れを、ここで2人並んで過ごした。

宗介はみかんの皮を丁寧にむき、一房ずつ千景の口元に運んでくれた。

千景は彼の肩にもたれ、眼下に広がる街の灯を眺めた。

「宗介。私たち、ずっとこうしていられるかな」

宗介は髪に口づけ、迷いなく答えた。

「いられる。一生、このままだ」

「一生」という約束は、あまりにも短かった。彼の愛情が自分だけに注がれたのは、ほんの数年だった。

千景は立ち上がり、キッチンへ向かった。

起業したばかりで生活が苦しかった頃、料理などしたことのなかった宗介が、千景のために作り方を覚えた。

初めてポタージュを作った時は鍋底を焦がし、苦くてとても食べられる味ではなかった。

宗介は耳まで赤くし、ばつが悪そうに器を差し出した。

「まずいよな?次はちゃんと作るから、また食べてくれるか?」

あの時の千景は、苦いポタージュを笑顔で飲み込み、何度もうなずいておいしいと褒めた。

主寝室の寝具は、すべて新しい物に替わっていた。

以前は深夜までベッドの脇でデザイン画を描き、そのまま眠ってしまうことが何度もあった。

接待を終えて帰宅した宗介は、どれほど疲れていても足音を立てずに部屋に入った。

眠りを妨げないよう、そっと布団を掛けてくれた。

そして耳元で、優しく囁いた。

「千景、もう少しだけ待っていてくれ。仕事が軌道に乗ったら、一生何の心配もさせない」

宗介は成功を手にした。だが、成功を手にした宗介の隣に、もう千景の居場所はなかった。

最後に洗面所に入った。

かつて二人分の洗面用品が並んでいた洗面台には、今では千景の物しか残っていなかった。

毎朝ここで過ごす時間は、かつて2人にとって最も穏やかなひとときだった。

狭い鏡の前に2人で並び、身支度をした。

宗介はいつもいたずらをして、泡を千景の鼻先につけた。

頬を膨らませて睨み、追いかけてくる千景を見て、目を細めて笑っていた。

千景はその場に立ち尽くした。胸の奥が鈍く痛んだ。

向きを変え、廊下のいちばん奥にある書斎へ向かった。

扉をそっと押し開けた瞬間、目の前の光景に全身がこわばった。

床は荒れ果て、黄ばんだ紙が何枚も散らばっていた。

かつて千景が一枚ずつ手書きした「仲直り券」だった。

一箱に、100枚以上も詰まっていた。

恋人だった頃、どれほど激しく喧嘩をしても、口を利かない日が続いても、この券を一枚出せば、どんなに喧嘩していても、わだかまりを捨てて仲直りすると約束していた。

1年前、千景は宗介と朋花の関係を知った。

取り乱し、絶望し、泣き叫んだ。

10年の愛が一日にして消えたとは信じられず、仲直り券の箱を抱えて、泣きながら宗介にすがった。

「宗介、一枚使おう。お願いだから、もう一度やり直そう?」

だが宗介は、取り乱す千景を冷ややかに見下ろし、彼女が抱えていた箱を手で払い落とした。

仲直り券が宙を舞い、床一面に散らばった。

その目には、情のかけらも残っていなかった。

「千景。愛し合っていた時に書いた物でも、愛がなくなれば何の価値もない。そんな約束が、今さら通用するわけがないだろう」

千景は目を伏せた。長いまつ毛が、瞳の奥の痛みを覆い隠した。

手を上げ、書斎の扉を静かに閉めた。

ポケットのスマホが鳴り、静まり返った部屋に音が響いた。

千景は深く息を吸い、胸の奥から込み上げる痛みを押し込めて、落ち着いた声で電話に出た。

相手は、花店の店主だった。穏やかで丁寧な声が聞こえた。

「三枝様、お忙しいところ失礼いたします。明日のお花も、例年どおり霊園にお届けしてよろしいでしょうか」

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