夫が私の腎ドナーを妹に譲ったから、私は笑って退院した第2話
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昔の私なら、貴雅のあんな提案、聞いた瞬間に大喧嘩になっていたに違いない。
けれど彼は、私の性格を誰よりも知っている。だから今回の話を切り出すときには、両親の名前まで持ち出してきた。
「お前の両親、もう年だろ。香里の面倒を見るのも正直、限界らしい。
こういう時こそ、俺たちが少しでも力にならなきゃいけないんじゃないかって思ってさ……」
貴雅の言葉が最後まで届く前に、息子の結城年彦(ゆうき としひこ)がバタバタと駆け寄ってきて、私の腕をぶんぶんと振りながら、甘えるように訴えてきた。
「ママ、香里おばちゃん、うちに住ませてあげてよ!
ママが嫌なら、僕、自分の部屋を譲ってもいいから!
ねぇ、パパの言うこと、聞いてあげてよぉ……」
あの年彦が、こんなふうに感情を表に出して人に頼み込むなんて、生まれてから今日まで見たことがなかった。
いつも貴雅そっくりの無表情で、私の心配や声かけなんて、まともに返事すらしなかったくせに。
なのに、今は──
香里のためなら、自分の部屋すら手放すっていうのか。
思わず手に力が入り、爪が手首の皮膚に食い込んだ。赤くなった痕がじんわりと痛む。
私は深く息を吸って、年彦の手をそっと振りほどいた。
「……わかった。受け入れるわ。
もういいでしょ?私は休むから」
そう言い残して、私は寝室へ戻った。
うとうとしていると、ふいにドアの開く音がした。
ひやりとした空気が吹き込んできて、頭の近くにドンという音。何かを置かれたようだった。
でも、体の疲れが重すぎて、まぶたすら持ち上がらない。
耳にかすかに、貴雅の声が届いた。
「詩織?おい、詩織!」
私が反応しないのを見ると、彼は私の腕を押してきた。
ズキン、と脳天に突き刺さるような痛み。思わず目を開けて、貴雅を見上げた。
「……何?」
かすれた声は無視され、代わりに返ってきたのは、いつもの叱責だった。
「家のこと、山積みほどあるのに、よくも平気で寝ていられるな!
香里のためにスープ作ったんだ。俺は年彦連れて先に行くから、お前はキッチン片付けとけ」
……笑わせないでよ。
この人、料理なんてできたの?何年も一緒に暮らしてきたけど、見たことなかった。
ずっと私が全部やってきて、それでも文句ばかり言われてきたのに。
皮肉を噛み殺している間にも、苛立った声がさらに追い討ちをかけてくる。
「ぼーっとしてないで、さっさと動けよ!」
貴雅の性格なんて、私が一番よくわかってる。
特に香里のことになると、異常なほど執着する。ここで争っても無駄だと悟った私は、黙ってベッドから起き上がった。
その姿を見て安心したのか、彼は年彦を連れて出て行った。
彼らの背中が見えなくなるのを確認すると、私は再びベッドに倒れ込んだ。
翌朝、外からガチャガチャと耳障りな音で目が覚める。
寝室を出た途端、貴雅のせっかちな声が飛んできた。
「会社でトラブルだ。年彦送ったあと、朝飯、香里に届けといてくれ」
バタンとドアが乱暴に閉まり、再び家の中は静寂に包まれた。
手に持っていた弁当箱をテーブルに置こうとしたその瞬間、強烈なめまいが襲ってきた。
目の前がぐらりと揺れ、真っ暗になった。最後に見えたのは、年彦がこちらへ駆けてくる姿だった。
──もしかして、
彼らも、少しは私のことを心配してくれてる……?
そんな淡い期待は、すぐに裏切られた。
再び目を覚ましたとき、私はまだ床に倒れていた。冷たい床の温度が、皮膚を超えて骨の奥にまで染み込んでくる。
「パパ、僕が間に合わなかったら、香里おばちゃんのごはん、ゴミ箱行きだったよ」
年彦の無邪気な声に、貴雅は頭を撫でて微笑んだ。
「さすが年彦!香里が知ったら、絶対喜ぶぞ」
親子二人の会話は、最初から最後まで、話題は「香里」だけ。床に倒れている私の存在なんて、最初からなかったのように。
胸を針で突かれたような痛みが走る。喉の奥に、血の味が広がってきた。
それでも私は、ぐらつく体をなんとか起こした。
わずかなその動きが、ようやく彼らの目に映った。
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