和紙文出会わぬままいられたなら · 第2話設定≡

出会わぬままいられたなら第2話

この話は約1770字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

「それに、出産に向けて準備する物だって山ほどある。由依がそばにいてくれれば、あなたも安心して体を休められるし、無理して気を張ることもないんだから」

彼女は唇を尖らせ、何度か私をにらみつけると、しぶしぶ言う。

「じゃあ、しばらくは藤沢家にいてもいいわ。でも、和幸の車には乗らないで。タクシーで帰りなさい」

和幸は唇を引き結び、困ったように私を見つめる。

「由依……」

まただ。

沙織の言葉は、まるで絶対的な命令。

この九か月間、彼女の言うことはどんなに無茶でも、和幸は毎回私に譲歩させてきた。

今日はとうとう、夫の車にすら乗ることを禁じられた。

私はふっと笑って一歩後ろに下がり、淡々と言う。

「自分でタクシーで帰るわ」

沙織は勝ち誇ったように助手席へ乗り込む。

和幸はこっそりと私の手を握り、申し訳なさそうな視線を私に向ける。

「沙織は妊娠中で気持ちが揺れやすいんだ。俺たちがもう少し気を配ってやろう。お腹の子は兄の唯一の血筋なんだ。何としても無事でいてもらわないといけない。

本当にすまない、由依。君にはつらい思いをさせている。彼女が無事に子どもを産んだら、すぐにまた籍を入れよう。今度こそ、もう二度と別れない。誓うよ」

私が返事をする前に、沙織の怒りに満ちた声が車内から飛んでくる。

「和幸」

和幸は電流でも走ったかのように私の手を離し、慌てて運転席に乗り込む。

私は終始、無言だった。

遠ざかる車を見送りながら、胸の奥が不思議と静まり返っていく。

私たちが最初に離婚したのは、結婚記念日をふたりで過ごそうと映画を観に行き、沙織を連れて行かなかったから。

二度目は、彼女の翡翠のバングルが砕けたから。

三度目は、彼女が亡き夫の夢を見たから。

四度目、五度目……

回を重ねるごとに荒唐無稽になっていくが、それでも、和幸は彼女のその手にまんまと引っかかる。

この数か月、私は何度も話し合いを求め、時には沙織のように感情をぶつけたりもした。

けれど、彼は、いつも無表情で私の取り乱す様子を見つめるだけ。そのあとになって高級ブランドのバッグをいくつも差し出し、最後には私の手を握って、優しい声でささやいてくる。

「由依、君がわがままを言っても責めたりしない。でも分かってほしい。いまは沙織を第一に考えなきゃいけない。

君にはつらい思いをさせるけど、子どもが生まれたら、もう彼女を甘やかしたりしない。二人でちゃんとやっていこう。だから、あと少しだけ耐えてくれないか?」

誓いの言葉は、何度も繰り返せば安っぽくなる。

もう、受け止める気力もない。

深く息を吸い込み、私はスマホを取り出して、電話をかける。

一秒もたたずに繋がり、受話口から慈愛のこもった声が聞こえてくる。

「由依か。じいちゃんに会いたくなったのか?」

目のふちが一気に熱くなり、込み上げる嗚咽を必死にこらえる。

「おじいちゃん、和幸と離婚したの。明日、車をまわして誰かに迎えに来てもらえない?

それから、和幸の会社との全ての取引を打ち切って。きっぱり縁を断ち切りたい」

祖父は驚きを隠せなかった。私がどれほど和幸を愛していたかを知っているからだ。

篠原家の令嬢があえて身分を下げて嫁ぐと決めたとき、祖父は何度も私を引き留めた。それでも私は聞き入れず、最後には彼も折れて、密かに和幸の事業を支えてくれていた。

今や、和幸の会社は順調に成長を遂げた。けれど、私たちの結婚生活はとうとう終わりを迎えてしまった。祖父は喜びつつも、私がどれほど耐えてきたかを思い、胸を痛めているのだろう。

「明日、じいちゃんが自ら迎えに行くよ」

藤沢家に着いたのは、それから三十分後のことだ。

玄関を開けた瞬間、リビングルームに私の服が散乱しているのが目に飛び込んでくる。

あちこちにばらまかれ、誰かにそのまま放り出されたとひと目でわかる。

胸がズキリと痛み、私はクロークルームへと足を向ける。

すると、その奥から和幸と沙織の楽しげな笑い声が漏れ聞こえてくる。

「和幸、子どもの服だけじゃなくて、靴もたくさん買いたいわ。由依の靴も全部放り出しちゃおう」

「買えばいい。欲しいものは何でも買っていい。あなたが喜ぶならそれでいい。由依の物はどこに置いても構わない、あなたの好きにして」

甘く柔らかな声だ。

私は黙ってドアを押し開ける。

かつて私のクロークルームだった場所は、いまやベビー用品で埋め尽くされている。

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)