すべてを手放して静かに幸せになるまで第2話
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翌朝、カレンダーを見て明純は今日が結婚三周年の記念日だったと思い出した。
今年は祝わなくていいと伝えようと階下へ降りると、キッチンで忙しく立ち働く智久の姿が目に入った。
出会ってからずいぶん経つが、完璧なエリートである夫が自ら包丁を握る姿を見るのは初めてだった。
これだけの料理を作るのに、一体どれほどの時間を費やしたのだろう。
見当もつかず、ただひたすらに驚くばかりだ。
やがて料理を終えた智久は明純を座らせ、自ら海鮮料理を取り分けて味見を勧めてきた。
少しだけためらってから、明純は箸を受け取る。
一品味わうごとに、智久は味付けを尋ね、熱心にメモを取っていた。
ノートに記された「エビは新鮮、魚はピリ辛、アサリは味が薄い」という書き込みを見て、どうしてそんなものを書き留めるのかと、つい尋ねてしまった。
智久は手を止めることなく、淡々と答える。
「海外から帰ってきた友人が、ずっと『磯波亭』の料理を食べたがっててね。でもあの店はもう閉まってるし、料理長も亡くなっただろ。だからレシピを探して作ってやろうと思ったんだけど、腕が鈍ってないか心配で、家で試作してみたんだ」
名前こそ出さなかったが、その友人というのが姉の美琴であることは一瞬で察しがついた。
妻である自分は、姉のための単なる味見役に過ぎなかったらしい。
メモを取り終えると、智久は弁当箱を取り出し、評価の良かった数品を詰め込み始めた。
そして車の鍵を手に取り、一言だけ残して慌ただしく家を出ていく。
「先に出るよ。今日は味見に付き合ってくれてありがとう。気に入ったなら、また今度作ってやる」
今日が記念日だったことすら、すっかり忘れているようだ。
声もなく自嘲気味に笑い、うつむきながら誰にも聞こえないような声で呟く。
「……いいの。私、海鮮アレルギーだから」
その言葉が届くはずもなく、智久はそそくさと立ち去っていった。
背中を見送った後、残された料理をすべて片付ける。
再びスマートフォンを開くと、美琴がSNSに投稿した写真が目に飛び込んできた。
【何気なく言った一言を、ずっと覚えていてくれた】
添えられている写真は、先ほど智久が持ち帰ったあの五品の料理。
呆然と画面を見つめ続け、ふと我に返った時、体中に赤い発疹が広がっていることに気がついた。
びっしりと肌を覆う様は、見るも無惨な状態だ。
だが、痒みも刺すような痛みもまったく感じない。
胸に手を当てて、初めて気がつく。
心が抉られるように痛くて、身体の不快感などすべて掻き消してしまっていたのだと。
ふらつく足取りで寝室へ戻り、アレルギーの薬を飲んで布団に潜り込む。
霞んでいく意識の中で、最後に残ったのはたった一つの思いだけ。
すべて、もうすぐ終わる。
*
目を覚ますと、すでに夕暮れ時になっていた。
今夜はパーティーがあることを思い出し、身支度を整えるために体を起こす。
会場に足を踏み入れると、そこには美琴の姿もあった。
姉妹が揃って姿を現したのを見て、招待客たちは三年前の茶番劇のような結婚式を思い出し、口々に噂し始める。
「姉の夫を奪っておいて、よく顔を出せるわよね。図々しいにも程があるわ」
「両家の縁談が取り消せなかったからでしょ。じゃなきゃ、明石社長がこんなどす黒い女を妻に迎えるはずがないわ」
「私が美琴なら絶対に許さない。思い知らせてやるのに」
この三年間で、胸を抉られるような悪意のある言葉を何度耳にしたことか。
深く息を吸い込み、聞こえないふりをして会場の片隅に腰を下ろす。
だが、美琴の取り巻きたちがわざわざ歩み寄ってきた。
「ちょっと明純。美琴も来てるのに挨拶にも行かないわけ?いくらなんでも実の姉妹でしょ。もしかして、やましいことでもあるの?」
「姉の夫を奪うような女が、やましいなんて感じるはずないじゃない。目的のためなら手段を選ばないその図々しいところ、見習いたいものだわ」
「見習うって?媚びへつらうところを?十何年も尻尾を振ったところで、結局は道端の犬コロと同じよ。明石社長が本当に気にかけてるのは、美琴だけなんだから」
嘲笑を浮かべる女たちの顔を見て、きつく拳を握りしめる。
立ち上がって道を空けるよう言おうとした瞬間、女たちはさらに図に乗り、手にしていた酒を明純の顔に浴びせかけた。
視界が塞がれた隙に、数人がかりで思い切り突き飛ばされる。
激しい破砕音とともに、明純はシャンパンタワーに突っ込んだ。
何百ものグラスが体に降り注ぎ、あちこちから止めどなく血が溢れ出す。
ふらつきながら床に倒れ込み、顔面は蒼白になる。
全身を引き裂くような痛みが走り、喉の奥から苦悶のうめき声が漏れる。
涙で霞む目を開けると、氷のように冷たい美琴の視線とぶつかった。
騒ぎに気づき、少し離れた場所で振り返った智久は、その光景を目にして血相を変えた。
「何をしている!」
怒鳴り声を上げながら駆け寄り、明純を抱き起こそうと手を伸ばす。
だがその手が触れる直前、背後から悲鳴が上がった。
「美琴、どうしたの!」
智久はとっさに振り返り、そのまま気を失った美琴の元へと駆け戻っていった。
姉を抱き上げて去っていく夫の姿を見つめ、明純は血だまりの中に倒れたまま静かに目を閉じた。
傷口をなぞるように涙がこぼれ落ち、痛みのあまり全身が凍りつくように冷えていく。
周囲から「自業自得だ」、「天罰だ」と嘲笑する声が響く中、ただ体を抱きしめ、耳を塞ぎ、歯を食いしばって自力で立ち上がるしかなかった。
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