すべてを手放して静かに幸せになるまで第3話
この話は約2309字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
明純は一人で病院へ向かい、傷の手当てを済ませると、重い体を引きずって帰宅した。
痛みのせいで、夜はほとんど一睡もできなかった。
翌日の昼、智久が帰ってくる。
妻の青ざめた顔色に微かな罪悪感を覚えたのか、ようやく気遣うような言葉を口にした。
「怪我の具合はどうだ?」
明純は痛みを堪え、作り笑いを浮かべる。
「かすり傷よ。大したことないわ」
その言葉を疑ってさらに問いただそうとした智久の視線が、机上のカレンダーに付けられた赤い丸印でピタリと止まった。
「昨日は結婚記念日だったのか?どうして教えてくれなかったんだ?」
「もう過ぎたことよ」
明純の掠れた声を聞いて、智久はさらに罪悪感を募らせたらしく、罪滅ぼしのように外へ連れ出してきた。
逆らう気力もなく、そのまま一緒に家を出る。
二人がまず向かったのは映画館だった。
妻の希望を尋ねることもなく、智久は今一番人気のある恋愛映画のチケットを買ってくる。
若き日の誤解で別れた恋人たちが、それぞれ家庭を持ち、離婚を経て再び結ばれるという物語だ。
主人公が数年越しに初恋の相手を妻に迎える場面を見た途端、智久は勢いよく立ち上がって席を外してしまった。
彼が何も言わなくても、明純にはその理由が痛いほど分かっていた。
すっかり続きを見る気も失せ、鞄を手にしてシアターの外へ出る。
フロアの片隅にある喫煙室。壁にもたれて煙草を吹かす夫の背中は、どこまでも寂しげだった。
足音に気づいて顔を上げた智久は、明純の姿を認めるなり、慌てて灰皿で火を揉み消した。
「もう見ないのか?」
「目が疲れたから、もういいわ」
智久は無理に笑みを作って頷いた。
「確かに退屈な映画だったな。買い物に付き合うよ」
婦人服の店に入ると、智久は何着ものワンピースを見繕い、自ら試着を勧めてきた。
しかし、ずらりと並んだSサイズの服を見て、明純は表情をこわばらせる。
Sサイズ。
それは美しさを保つために常に体型を気遣っていた、姉のサイズだ。
自分はMサイズだと告げようとしたが、言葉を発する前に遮られてしまった。
「どうした?気に入らないか?」
静かに首を振り、服を抱えて試着室へ入る。
背中にはまだ包帯が巻かれているため、ファスナーを上げるだけでも一苦労だった。
痛みに滲む冷や汗を拭い、何事もなかったかのように装って外へ出る。
くるりと回って見せ、どうかしらと尋ねようとした時、智久が呆然と鏡を見つめていることに気がついた。
その瞳には複雑な感情が渦巻き、まるで鏡越しに遠い過去を見つめているかのようだった。
つられて首を傾けつつ鏡を覗き込むと、そこには十八歳の頃の美琴に生き写しな自分の姿が映っている。
普段はモノトーンばかり好む彼が、こんな淡い色のワンピースを選んだのも、美琴の面影を重ねていたからなのだろう。
ようやく合点がいった。
一瞬にして明純は胸の奥を激しく締め付けられ、息苦しさに襲われる。
その時、背中の包帯から血が滲み出ていることに気づいた店員が悲鳴を上げた。
声に驚いて視線を向けた智久は、血相を変える。
「こんなに酷い怪我だったのに、どうして言わなかったんだ?痛むか?すぐ病院へ行こう」
言うが早いか、彼はカードで慌ただしく服の会計を済ませ、明純の腕を引いて階下へと急いだ。
だがエスカレーターに乗った直後、下の入り口から美琴が入ってくるのが見えた。
その姿を捉えた瞬間、智久は無意識に明純の腕を手放してしまう。
急に引っ張られて足早になっていた明純は、突如支えを失ってバランスを崩し、エスカレーターから転げ落ちてしまった。
激しい衝撃で背中の傷口はさらに裂け、溢れ出た血が瞬く間に服を赤く染め上げていく。
顔の筋肉が引きつるほどの激痛に、食い縛った奥歯が震え、生理的な涙が止めどなく溢れ出した。
慌ててエスカレーターを駆け下りてきた智久は、明純を抱き起こしながら何度も謝罪の言葉を口にする。
その目には明らかな動揺が浮かんでいた。
美琴も騒ぎに気づいてゆっくりと歩み寄ってくると、血に染まったワンピースに視線を落とし、嘲るような笑みを浮かべた。
「明純ったら、新しい服を買ってもらって嬉しすぎて転んじゃったの?でも、その服少し窮屈そうね」
智久はここで初めて、明純の髪に隠れていた背中のファスナーが半分しか上がっていないことに気がつく。
激しい自責の念に駆られたのか、思わずといった様子で尋ねてきた。
「サイズが合わないなら換えればよかったのに、どうして無理をしたんだ?」
明純は爪が掌に深く食い込むほど、強く拳を握りしめた。
目を伏せて涙を飲み込み、低い声で答える。
「ええ、もっと早く換えるべきだったわ。もう二度と、無理なんてしない」
美琴は眉をひそめ、冷ややかに言い放った。
「明純って昔からそうなのよ。一度気に入ったら絶対にしがみついて離さないの。早く病院へ連れて行ってあげたら?」
智久はちらりと美琴へ視線を送ると、妻を抱き上げてその場を後にした。
病院の駐車場に車を停めた途端、智久のスマートフォンが鳴る。
距離が近かったため、通話越しの美琴の声が明純の耳にもはっきりと届いた。
「友達が恋人を紹介してくれるって言うから会ってきたの。智久と同級生だって言うんだけど、知り合いかしら……」
智久の動きがピタリと止まる。
彼がこれから何をするつもりなのか察した明純は、静かにシートベルトを外した。
案の定、通話を終えた智久は、気まずそうに視線を泳がせながらこちらを見る。
明純はすでに車のドアを開けており、彼のために気の利いた言い訳を口にした。
「一人で手当てできるから、用事があるなら行って」
そう言い残し、車を降りてドアを閉める。
智久の乗った車は、あっという間に走り去っていった。
一切の躊躇いもなく。
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