すべてを手放して静かに幸せになるまで第1話
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明石智久(あかし ともひさ)が想い人を庇って怪我をし、入院したという知らせを耳にするや否や、梅沢明純(うめざわ あすみ)は真っ先に病院へと駆けつけた。
少しだけ開いたドアの隙間から、姉の梅沢美琴(うめざわ みこと)が智久の胸に飛び込み、涙に暮れる姿が見えた。
「どうしてこんな馬鹿な真似を?車が突っ込んできたら、誰だって逃げるのに。私を突き飛ばして身代わりになるなんて。あれからもう何年も経つというのに、どうしてまだ気にかけてくれるの?
あの時、私が結婚式から逃げ出して、社交界の笑い者にしたのに。少しも恨んでいないの?」
智久は目を閉じ、傍らに下ろした手を微かに震わせながら、低く押し殺した声で答えた。
「愛しすぎて、恨むことすらどうでもよくなってしまったのかもしれない」
美琴は声も出ないほど泣きじゃくり、胸をかきむしられるような思いで咽び泣いた。
「後悔しているの。どうしてあの時置いていってしまったのかって。でも、もう私たちにやり直す道はないわよね。もう、妹の夫なんだから」
* * *
明石智久(あかし ともひさ)が想い人を庇って怪我をし、入院したという知らせを耳にするや否や、梅沢明純(うめざわ あすみ)は真っ先に病院へと駆けつけた。
少しだけ開いたドアの隙間から、姉の梅沢美琴(うめざわ みこと)が智久の胸に飛び込み、涙に暮れる姿が見えた。
「どうしてこんな馬鹿な真似を?車が突っ込んできたら、誰だって逃げるのに。私を突き飛ばして身代わりになるなんて。あれからもう何年も経つというのに、どうしてまだ気にかけてくれるの?
あの時、私が結婚式から逃げ出して、社交界の笑い者にしたのに。少しも恨んでいないの?」
智久は目を閉じ、傍らに下ろした手を微かに震わせながら、低く押し殺した声で答えた。
「愛しすぎて、恨むことすらどうでもよくなってしまったのかもしれない」
美琴は声も出ないほど泣きじゃくり、胸をかきむしられるような思いで咽び泣いた。
「後悔しているの。どうしてあの時置いていってしまったのかって。でも、もう私たちにやり直す道はないわよね。もう、妹の夫なんだから」
智久の胸は深く抉られ、血を流しているかのようだった。
長い沈黙の後、嗄れた声で一つの問いを口にした。
「もし来世があるなら、今度こそ俺と最後まで添い遂げてくれるか?」
「ええ。来世があれば、絶対に手放したりしないわ」
その瞬間、長年抑え込んできた智久の感情が堰を切ったように溢れ出し、ついに手を伸ばして美琴を強く抱きしめた。
その目元が赤く染まるのを見て、明純は胸の奥に何かがつかえたように、どうにも息ができなくなった。
底知れぬ切なさが押し寄せ、涙が視界を滲ませる。
それでも泣くのを堪え、これ以上ないほど醜い作り笑いを浮かべた。
今生はまだ半分も過ぎておらず、妻である自分はこうして生きているというのに。
夫はすでに、姉との来世を待ち望んでいる。
ならば、この三年間の結婚生活は、一体何だったというのか。
きつく握りしめた掌から血が滲み、無数の記憶が次々と脳裏に蘇る。
物心ついた頃から、明純は智久を知っていた。
だがその瞳に自分が映ったことはなく、ただひたすらに姉の背中を追いかけていた。
無邪気な子供時代から恋を知る年頃になっても、明純は常に傍観者として、智久の狂おしいほどの愛が育っていくのを見つめていた。
美琴のために他の女子からの好意をすべて拒絶し、姉だけを守り続けている姿を。
安定した幸せな未来を与えるためだけに、パイロットの夢を諦めて家業を継ぐ姿を。
やがて明石家と梅沢家が縁組を結び、二人の娘から一人を選ぶことになった時、智久は迷うことなく美琴を選び、この上なく盛大な結婚式を準備した。
しかし式当日、美琴は貧しい男と駆け落ちしてしまった。
噂は瞬く間に広まり、式場は非難と嘲笑の渦に包まれ、花婿である智久の誇りと面子は泥水に踏みにじられたも同然だった。
その日、自ら前に進み出て、すべてを被ったのは明純だった。
姉は逃げたのではなく、自分が追い出したのだと告げた。
自分も智久のことが好きで、嫉妬に狂い、姉の花婿を奪うために追い詰めたのだと。
いずれにせよ縁組を無かったことにはできない。
姉を追い出した以上、自分を妻に迎えるしかないと。
その言葉が放たれた途端、式場の人々からの心無い非難は、すべて明純へと向けられた。
だが、明純の本当の性格を知り尽くしている智久と、祖母の明石宇多子(あかし うたこ)だけは分かっていた。
生まれつき気が弱く、梅沢家でも冷たくあしらわれている明純に、姉を追い詰めるような真似などできるはずがないのだと。
その日、智久は明純の指に結婚指輪をはめ、花嫁が入れ替わったまま式は進められた。
式が終わった後、宇多子はなぜあんな真似をしたのかと尋ねた。
明純は口ごもりながら、ようやく本心を打ち明けた。
「智久さんは誇り高い方ですから。あの屈辱を、たった一人で背負わせたくなかったんです」
宇多子はその一途な思いに心を打たれ、明純を孫の嫁として認めてくれた。
息を引き取る間際、宇多子は明純の行く末を案じ、孫に「一生離婚しない」と誓わせた。
智久もまた、明純が自分のためにどれほど泥を被ってくれたかを分かっていたからこそ、その誓いを受け入れた。
結婚してからの智久は良き夫であろうと努めた。
花やプレゼントを欠かさず、記念日には必ずお祝いをしてくれた。
夜のベッドでもこの上なく優しく、常に気遣ってくれた。
夫はすでに自分を愛してくれているのだと、何度も錯覚した。
一ヶ月前、美琴が離婚して帰国するまでは。
貧しい暮らしに嫌気がさした姉は、智久の優しさを思い出し、よりを戻したいと願ったらしい。
だが、祖母との誓いがある手前、智久は首を縦に振ることはできなかった。
口では「もう終わったことだ」と言いながらも、姉に何かあるたび、智久は仕事を放り出して駆けつけた。
その姿を何度も目の当たりにするうち、一生添い遂げたいという夢は完全に打ち砕かれた。
智久が姉に向けていた身を焦がすような若き日の愛を思い出し、どうしても姉を手放せないのだと悟った。
夫を解放し、自分自身も自由になろう。
離婚できないのなら、死別すればいい。
そうすれば、夫婦という縛りは自動的に消え去るのだから。
病院を出た後、明純は親友の富山香瑠(とやま かおる)に電話をかけた。
「香瑠、修理に出す飛行機が一機あったわよね?」
「ええ、あるけど、どうしたの?」
深く息を吸い込み、今下したばかりの決断を打ち明けた。
「飛行機事故を仕組んでほしいの。その飛行機で、私を死んだことにして」
*
家に戻ると、すぐに荷造りを始めた。
三日後、帰宅した智久はトランクケースを見て、何気なく尋ねた。
「急に荷造りなんかして、どうしたんだ?」
「十日後に友人の結婚式があって、海外へ行くの」
本当は、結婚式などどこにもない。
その日は、自ら選んだ死が訪れる日だった。
智久は微かに眉を寄せ、海外で結婚する友人とは誰だったかとしばらく考え込んでいた。
結局思い当たる節はなかったらしく、それ以上追及することもなく、妻の腰を引き寄せた。
首筋に吹きかかる優しい息遣いを感じ、明純は全身を強張らせ、無意識に突き飛ばしていた。
「あの日なの」
だが智久の記憶では、生理は一週間前に終わったばかりのはずだった。
拒絶するような態度を見てしばらく呆然としていたが、やがて探りを入れるように口を開いた。
「美琴を庇って怪我をしたこと、怒ってるのか?美琴を助けたのは君の姉だからだ。万が一のことがあったら、君が悲しむだろうと思って」
何も尋ねていないのに、男はすでにもっともらしい言い訳を用意していた。
誓いを守るため、そして美琴の言葉を聞き入れたからこそ、家に戻って仲睦まじい夫婦の芝居を演じているのだと分かっていた。
だが、いくら取り繕っても、貧しさと咳、そして恋心だけは隠し切れるものではない。
今まさに電話が鳴り、画面に美琴の名前が表示されたのを見ただけで、智久の口角は微かに上がり、瞬時にすべての言い訳など消え去ってしまったように。
一言だけ言い残し、スマートフォンを手に書斎へと消えていった。
「急な仕事が入った。疲れたなら俺を待たずに休んでてくれ」
扉が閉まる直前、微かに漏れ聞こえた姉の声に、小さく笑みをこぼした。
ええ、もう二度と待たない。
やがて彼も、何も隠すことなく、愛する人を追いかけられるようになるのだから。
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