99回、君を許した第1話
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付き合って7年。婚約者は、ある男性研修医を優先して、僕との入籍を99回断った。
最初は、夜勤の彼が暗いのを怖がっているからと、僕との旅行を放り出し、その夜の飛行機で病院へ戻った。
2回目は、もう役所に入るところだった。彼が働きすぎで倒れたと知るや、彼女は僕を雪の中に丸一日置き去りにした。
それからも、僕が彼女と一緒にいるたびに、研修医はあれこれ理由をつけて、彼女を呼び出した。
とうとう僕は手を放すと決めた。彼女と幸せな結婚をする日を、もう待つのはやめよう。
ところが、僕の異動を知った彼女は、やがて取り乱し、僕にすがるようになった。
* * *
役所の入口の階段は、座り続けた僕の体温で熱を帯びていた。
何度目かもわからないまま、スマホの画面をつける。瀬戸夏帆(せと かほ)からの最後のメッセージは、3時間前のままだ。
【急患が入ったの。少しだけ待ってて】
少しと言われて待っていたら、何時間も過ぎていた。
見慣れた白いSUVがようやく現れた。思わず勢いよく立ち上がりかけて、そのまま動けなくなる。
助手席にいたのは宮坂悠真(みやさか ゆうま)。どこまでも僕たちにつきまとう、あの研修医だった。
夏帆が窓を下ろす。その声には、聞き慣れた焦りがにじんでいた。
「早く乗って!悠真が急に動悸を訴えてて、すぐ病院に連れていかないと」
悠真が待っていたように苦しげなうめき声を上げ、座席で体を丸めた。そちらへ目を向けると、今日は髪まできっちりセットしている。白衣の下からのぞくシャツの襟にも、丁寧にアイロンがかかっている。
血色だって僕よりいい。
その様子を見て、突然の動悸だと素直に信じる気にはなれなかった。僕も医者だということを、夏帆は忘れたのだろうか。
深く息を吸った。
「夏帆、今日は入籍する日だって、覚えてる?」
夏帆は苛立たしげにハンドルをたたいた。
「覚えてる!でも今は悠真の容体が危ないの。こんなときまで、自分のことばかり言わないで!」
悠真が力なく顔を上げた。また、遠慮がちな、物わかりのいい顔を作っている。
「僕は大丈夫です、瀬戸先生。お二人は先に手続きを……僕は、自分でタクシーを呼びますから……」
そう言ってシートベルトを外そうとした悠真が、ふと顔をこちらに向けた。その口元に、勝ち誇った笑みが浮かぶのを僕は見逃さなかった。
こうして悠真が気を遣うふりをするほど、夏帆の目には僕がわからず屋に映る。夏帆は声を荒らげ、ベルトを外そうとする悠真の手を押さえた。
「岸本遼(きしもと りょう)、何を考えてるの!?こんな状態なのに、まだそんなことを言うの?入籍なんていつでもできるでしょう。悠真に何かあったらどうするの!命がかかってるの。わがままもいい加減にして!」
わがままなのは、僕なのか。
ここにいる3人とも医者だ。こんな下手な芝居でごまかせると思われていることが、医者としても腹立たしかった。
「午前の回診のときは、ナースステーションで冗談を言ってたよね。それが急にICUに入るほど悪くなったの?」
「いい加減にして!」
夏帆が勢いよく車のドアを開けた。
「今、脈が速くなって、息苦しがってるの。いつ何が起きても――」
「窒息する?ショックを起こす?」
僕はその先を遮った。
「心臓の病気でどんな症状が出るか、君も知っているだろう。今の彼が、そんなに切迫した状態に見える?」
悠真の演技が途切れた。取り繕おうとする顔に、焦りや戸惑いが次々と浮かぶ。
それでも夏帆は、僕が悠真を見殺しにしようとしていると決めつけていた。ますます声を荒らげる。
「もう少し大人になれないの?いつも悠真を目の敵にして、何になるの!」
目の敵、か。
悠真のためなら、夏帆はいつでも僕に譲らせ、何度でも約束を破ってきた。僕たちの関係を大事にしてほしいと、一度言っただけで、そんなふうに受け取られる。
思わず、ふっと鼻で笑った。ゆっくりと書類をポケットに戻す。
「99回目だよ」
「……何が?」
「入籍をしようとするのは、今日で99回目だ。君が彼のために僕との約束を破ったのも、これで99回目」
背を向けて地下鉄の駅へ歩きだす。背後のヒールの音が一瞬途切れ、それから僕を追ってきた。
「最初は、夜勤の彼が暗いのを怖がってるからって、僕との旅行を放り出して、その夜の飛行機で病院に戻って、彼に付き添った。
次は、もう役所に入るところだったのに、彼が働きすぎで倒れたと聞いて、僕を雪の中に丸一日置き去りにした」
夏帆の目を見ながら、つかまれていた手をゆっくりと引き抜いた。
「今日で99回目だよ……夏帆、今日が付き合って7年の記念日だってことは、覚えてる?」
夏帆の目に、一瞬、動揺が浮かんだ。何か言い訳をしようとした、そのとき、車の中で悠真がまたうめいた。
夏帆は一度そちらを振り返った。僕に向き直ったとき、その目はもう、あの人を案じる色に戻っている。
「怒ってるのはわかる。でも今、悠真には私が必要なの。入籍するために治療を遅らせるわけにはいかないでしょ。タクシーで帰って。私は先に彼を病院へ連れていくから」
僕はうなずいた。
二人を乗せた車が走り去る。それを見送って、この7年の何より残酷な答えを、僕はようやく思い知った。
夏帆はいつだって、自分を必要としてくれる人を求めている。
そして、その相手は一度も、僕ではなかった。
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