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99回、君を許した第1話

この話は約2148字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

付き合って7年。婚約者は、ある男性研修医を優先して、僕との入籍を99回断った。

最初は、夜勤の彼が暗いのを怖がっているからと、僕との旅行を放り出し、その夜の飛行機で病院へ戻った。

2回目は、もう役所に入るところだった。彼が働きすぎで倒れたと知るや、彼女は僕を雪の中に丸一日置き去りにした。

それからも、僕が彼女と一緒にいるたびに、研修医はあれこれ理由をつけて、彼女を呼び出した。

とうとう僕は手を放すと決めた。彼女と幸せな結婚をする日を、もう待つのはやめよう。

ところが、僕の異動を知った彼女は、やがて取り乱し、僕にすがるようになった。

* * *

役所の入口の階段は、座り続けた僕の体温で熱を帯びていた。

何度目かもわからないまま、スマホの画面をつける。瀬戸夏帆(せと かほ)からの最後のメッセージは、3時間前のままだ。

【急患が入ったの。少しだけ待ってて】

少しと言われて待っていたら、何時間も過ぎていた。

見慣れた白いSUVがようやく現れた。思わず勢いよく立ち上がりかけて、そのまま動けなくなる。

助手席にいたのは宮坂悠真(みやさか ゆうま)。どこまでも僕たちにつきまとう、あの研修医だった。

夏帆が窓を下ろす。その声には、聞き慣れた焦りがにじんでいた。

「早く乗って!悠真が急に動悸を訴えてて、すぐ病院に連れていかないと」

悠真が待っていたように苦しげなうめき声を上げ、座席で体を丸めた。そちらへ目を向けると、今日は髪まできっちりセットしている。白衣の下からのぞくシャツの襟にも、丁寧にアイロンがかかっている。

血色だって僕よりいい。

その様子を見て、突然の動悸だと素直に信じる気にはなれなかった。僕も医者だということを、夏帆は忘れたのだろうか。

深く息を吸った。

「夏帆、今日は入籍する日だって、覚えてる?」

夏帆は苛立たしげにハンドルをたたいた。

「覚えてる!でも今は悠真の容体が危ないの。こんなときまで、自分のことばかり言わないで!」

悠真が力なく顔を上げた。また、遠慮がちな、物わかりのいい顔を作っている。

「僕は大丈夫です、瀬戸先生。お二人は先に手続きを……僕は、自分でタクシーを呼びますから……」

そう言ってシートベルトを外そうとした悠真が、ふと顔をこちらに向けた。その口元に、勝ち誇った笑みが浮かぶのを僕は見逃さなかった。

こうして悠真が気を遣うふりをするほど、夏帆の目には僕がわからず屋に映る。夏帆は声を荒らげ、ベルトを外そうとする悠真の手を押さえた。

「岸本遼(きしもと りょう)、何を考えてるの!?こんな状態なのに、まだそんなことを言うの?入籍なんていつでもできるでしょう。悠真に何かあったらどうするの!命がかかってるの。わがままもいい加減にして!」

わがままなのは、僕なのか。

ここにいる3人とも医者だ。こんな下手な芝居でごまかせると思われていることが、医者としても腹立たしかった。

「午前の回診のときは、ナースステーションで冗談を言ってたよね。それが急にICUに入るほど悪くなったの?」

「いい加減にして!」

夏帆が勢いよく車のドアを開けた。

「今、脈が速くなって、息苦しがってるの。いつ何が起きても――」

「窒息する?ショックを起こす?」

僕はその先を遮った。

「心臓の病気でどんな症状が出るか、君も知っているだろう。今の彼が、そんなに切迫した状態に見える?」

悠真の演技が途切れた。取り繕おうとする顔に、焦りや戸惑いが次々と浮かぶ。

それでも夏帆は、僕が悠真を見殺しにしようとしていると決めつけていた。ますます声を荒らげる。

「もう少し大人になれないの?いつも悠真を目の敵にして、何になるの!」

目の敵、か。

悠真のためなら、夏帆はいつでも僕に譲らせ、何度でも約束を破ってきた。僕たちの関係を大事にしてほしいと、一度言っただけで、そんなふうに受け取られる。

思わず、ふっと鼻で笑った。ゆっくりと書類をポケットに戻す。

「99回目だよ」

「……何が?」

「入籍をしようとするのは、今日で99回目だ。君が彼のために僕との約束を破ったのも、これで99回目」

背を向けて地下鉄の駅へ歩きだす。背後のヒールの音が一瞬途切れ、それから僕を追ってきた。

「最初は、夜勤の彼が暗いのを怖がってるからって、僕との旅行を放り出して、その夜の飛行機で病院に戻って、彼に付き添った。

次は、もう役所に入るところだったのに、彼が働きすぎで倒れたと聞いて、僕を雪の中に丸一日置き去りにした」

夏帆の目を見ながら、つかまれていた手をゆっくりと引き抜いた。

「今日で99回目だよ……夏帆、今日が付き合って7年の記念日だってことは、覚えてる?」

夏帆の目に、一瞬、動揺が浮かんだ。何か言い訳をしようとした、そのとき、車の中で悠真がまたうめいた。

夏帆は一度そちらを振り返った。僕に向き直ったとき、その目はもう、あの人を案じる色に戻っている。

「怒ってるのはわかる。でも今、悠真には私が必要なの。入籍するために治療を遅らせるわけにはいかないでしょ。タクシーで帰って。私は先に彼を病院へ連れていくから」

僕はうなずいた。

二人を乗せた車が走り去る。それを見送って、この7年の何より残酷な答えを、僕はようやく思い知った。

夏帆はいつだって、自分を必要としてくれる人を求めている。

そして、その相手は一度も、僕ではなかった。

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