99回目の拒絶のあとに訪れる涙第2話
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よろよろと鷹野家の屋敷に戻ったけれど、別にここで死ぬつもりはなかった。
ただ、自分の荷物をまとめようと思っただけ。
だけど、改めて見渡してみたら、持っていくものなんて何もなかった。
かつて自分の部屋だったはずの場所は、今やただの物置に変わり果てている。
ドレッサーは隅に追いやられ、分厚い埃が積もっていた。大事にしていた本や写真立ても、無造作に段ボールへ押し込まれている。
ベッドだけは元の場所に残っていたけど、シーツはいつの間にか無機質なグレーの安物に変わっていた。
そして、埃まみれの古いアクセサリーケース。中には怜司が私にくれた唯一の誕生日プレゼント、安っぽいシルバーのチェーンだけが入っていた。
ベッドの端に座り、そっとドレッサーの埃を拭う。指先が写真立てに触れて、手が止まる。
そこには、二十歳の成人式で撮った一枚があった。シャンパン色のドレスを着ていた私は、まだ目に光が宿っていた。
あの頃は目が輝いていたのに、今はもう、すっかり光が消えてしまった。
咲の衣装部屋は、この物置の何倍も広い。しかも咲がいらなくなったものだけがここに運ばれてくる。
跡取りの妻だった私の寝室は、二年前から咲のヨガルームに改装された。
最新設備に、最高級のアロマ。
私は窓もない物置に追いやられて、それが私の部屋になった。
でも、今やその物置すら私のものじゃなくなっていた。
不意にスマホの着信音が鳴って、思考が中断された。
「……はい、天使湾記念霊園です」穏やかな女性の声が電話の向こうから響く。「鷹野澪様、先日ご相談いただいたお墓の件ですが、いまご入金いただければ七日間お取り置きできます。期限を過ぎますと、他のお客様を優先せざるを得ません」
一か月前、死後のために下見した場所だ。
純白の大理石像が立ち並び、天井から光が差し込む水晶の棺がきらめいていた。
もし死ねるなら、あそこで永遠に眠りたい。それが私の唯一の願いだった。
値段は1200万円。
財布の中にあるのは、数万円だけ。
「大丈夫です。やっぱり結構です」
骨髄移植の費用すら払えない人間に、死ぬことさえ、許されないみたいだった。
電話を切ったと同時に、ドアが開く音がして顔を上げる。
怜司が部屋に入ってきた。
この家のどこにいても、ふわっと鈴蘭の香りがするのが当たり前だった。
私が鈴蘭の香りが好きで、どこにいてもその香りがするようにしていたから。
でも、今のこの部屋には、ただ埃とカビ臭さしかなかった。
怜司は不機嫌そうに眉を寄せ、無意識に深呼吸して馴染みの香りを探していた。
けれど、どこにも見つからない。ただ、埃っぽい空気が漂うだけ。
すぐにその違和感を押し殺して、私を睨みつける。
「今、墓がどうとか電話で言ってたな?」
「……」
「澪、前にも言っただろ」怜司の声はひどく冷たい。「そんな縁起でもないことを言って、同情を誘うな。ふざけてるのか?」
何も言いたくなかったけど、反射的に口が動く。「違う、私は……」
「何が違うんだ?」怜司は食い気味に遮って、ますます冷たい目になる。
「お前はもう、咲から何も奪えない。
そもそも、お前が持つべきじゃなかったものだ」
気がついたら涙が頬を伝っていた。
怜司は、昇進祝いも、跡取りの妻という立場も、全部「咲のもの」だと言う。愛さえも。
――じゃあ、私のはずだったものは?全部、忘れてしまったの?
私は怜司を見上げる。「ひとつだけ、聞きたいんだけど。私の二十歳の成人式、覚えてる?」
怜司の表情が一瞬だけ固まる。視線が写真立てへ流れて、すぐまた逸らされた。
「何が言いたいんだ?」
「そのとき『盛大な結婚式を挙げて、みんなに私を紹介する』って言ってくれた。でも結局、『お前にはふさわしくない』って全部なかったことにしたよね」
「だから?」
「二十一歳の誕生日も、二十二歳のも、二十三歳のも――全部、忘れてたよね。でも咲の記念日だけは、絶対に覚えてる」
「もういい加減にしろ!」怜司が声を荒げる。「そうやって、いつも小さなことを大袈裟にして……家のことを全然分かってない!
お前がいつまでも弱いから、存在感なんてなくなるんだろ」
怜司の冷たい視線が突き刺さる。
私は、この人にとって存在自体が間違いなのだと痛感した。
私の愛も、努力も、痛みも、すべて間違いだった。
私はかすかに笑って、「そうだね。全部私のせいだね」
背を向け、もう彼を見なかった。
「左の二段目の引き出しに、あなたへの手紙が入ってるから、三日後に読んで」
怜司は無言で出ていった。
零時の鐘が鳴る。部屋は再び静寂に包まれる。
私は埃だらけの写真立てを抱きしめながら、生命が少しずつ消えていくのを感じていた。
残り、あと二日。
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