99回目の拒絶のあとに訪れる涙第1話
この話は約2556字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
鷹野家の後継ぎであり、一族のナンバーツーである夫・鷹野怜司(たかの れいじ)は、今日も私の電話を無視した。
白血病の末期を抱えた私は、ふらふらの体で家の顧問弁護士を訪れる。
「すみません、離婚の手続きをお願いします」
その十数分後、怜司と家族たちが大慌てで事務所に押しかけてきた。
怜司は、私の顔を見るなり平手打ちを食らわせた。
「咲(さき)の昇進パーティを妨害したくて、緊急連絡番号を使ったのか?お前、頭はどうかしてるんじゃないか?」
私がしっかりと握っていた診断書は、母に無理やり奪われる。
母はちらっと診断書を見て、あざけるように鼻で笑った。
「またその手?仮病で同情を引いて、みんなの気を引きたいだけでしょ。澪(みお)、あんたは小さい頃から嘘ばかりついてきたじゃない」
妹の咲は、涙を浮かべて怜司の腕にすがる。
「ごめんね、お姉ちゃん。私なんかが昇進しなければよかったんだよね……だから、もう自分や怜司さんを傷つけたりしないで」
私は唇から滲む血をそっと拭って、弁護士をまっすぐ見つめた。
「……私にはもう、家族なんていません。三日後に遺体を火葬できるよう、離婚の手続きを急いでもらえますか」
* * *
私が鷹野家の顧問弁護士事務所を訪れるのは、これが最後だった。
冷たい大理石の床が足裏を擦るたび、全身に裂けるような痛みが走る。
白血病の末期症状で、もはや普通に歩くことさえできない。呼吸一つが、拷問だった。
「……すみません、鷹野家の跡取り、鷹野怜司(たかの れいじ)との離婚手続きをお願いしたいんです」
スーツ姿の弁護士が、哀れみを隠せない目で私を見つめてきた。
「奥様、ご家族の同伴は……?こういった手続きでご家族抜きというのは……珍しくて…」
私があまりにも青白く痩せているせいか、弁護士の声はやけに小さい。
何年も結婚しているのに、怜司は一度も私に公認の妻としての式を挙げてくれなかった。家の催しに連れて行かれることも、ほとんどない。
だから、誰も「跡取りの妻」が私だなんて、ろくに知らない。
「いいんです」私は淡々と言った。「死にかけの女に家族なんて必要ないですから」
その瞬間、事務所の扉が乱暴に開いた。
怜司の怒鳴り声が響く。「澪(みお)!お前、何やってるんだ!」
振り返ると、怜司の目に激しい怒りの炎が燃えていた。
その背後には桐島咲(きりしま さき)がぴたりとついてきて、いつもの嘘くさい笑顔を浮かべている。
「よりによって、今日まで騒ぐのか?」怜司は私の目の前まで詰め寄る。「咲が家の財務担当に昇進した日なんだぞ。家族みんなでお祝いしてるのに、こんな茶番をぶつけてきやがって!」
言うが早いか、平手打ちが飛んだ。衝撃でよろけて、頬がジリジリと痺れる。
しばらくしてから気づく。今日は確かに咲の昇進祝いだってことに。
怜司はわざわざ海外での仕事を延期してまで、咲のために予定を空けていた。
白血病の末期で、いつ死んでもおかしくない私は、たった一度、緊急連絡用のコードで助けを求めただけ。
その結果が、怜司からの「乱用」呼ばわりだった。
涙が滲む。でも絶対に泣かないと決めている。
何か言いかけた瞬間、激しい咳が襲った。
血がぽたりと床に落ちて、淡い大理石に濃い赤の花が咲いた。
やっと体を支えて、かすれ声で訴える。こんな時でさえ、私はまだ、どこかで期待していた。「怜司、私は本当に……」
怜司が私の口元の血に気づいたのか、眉をひそめる。
咲がすかさず声を上げる。「でも、怜司さんはお姉ちゃんのためにパーティーから駆けつけたんだよ……」
「だから言ったでしょ、咲。あの子が現れるとろくなことにならないって」母の桐島綾子(きりしま あやこ)が、扉の向こうから声を上げた。
「小さい頃から人の注目を集めたくて何でもやる子だったのに、いまさら信じろって?」
怜司の目が一気に冷たくなる。「澪。お前、俺を騙して咲の昇進祝いを台無しにしようとしてるのか?自分を傷つけてまで?」
じわじわ詰め寄ってきて、私の襟元をつかむ。咲が慌てて怜司を止める。
咲の目に涙が浮かび、か細い声で訴えかけてきた。
「ごめんね、お姉ちゃん。私、昇進なんて受けるべきじゃなかった。全部私のせいだから、もう自分を傷つけないで。怜司さんだって、お姉ちゃんのことですごく悩んでるの。もし本当に反省するなら、私……家からのどんな役職も受けないから!」
一つ一つの言葉が胸を抉り、私をどんどん悪者に仕立て上げていく。
その様子を見て、母の綾子が急に優しい声になる。「咲、あなたが立派だからこそ手に入れた役職なのよ。胸を張りなさい」
そんな「理想の母娘」の芝居も、見慣れているはずだった。それでも、何度見ても胸が痛くなる。
母親からもらえるはずだった愛情は、すべて咲に注がれた。
でももう、どうでもよくなっていた。死ぬ間際には、何もかもがどうでもよくなる。
心の中は砂漠のように乾いていた。なのに、また口の端に血の味が広がる。
怜司が私の診断書をもぎ取った。ざっと目を通し、鼻で笑う。
「白血病?演技が下手すぎるな」
びりっと音を立てて紙を破る。細かい紙片が足元に散った。
怜司の視線が、私の青白い顔で一瞬止まる。
目が合ったとき、不意に思い出す。二十歳の成人式、怜司の瞳は星みたいに輝いていた。でも今、その光はどこにもなかった。
もう愛なんて、残っていないんだろう。だから、もう光もない。
私は震える手で血を拭い、崩れそうな体をなんとか弁護士の方へ向ける。
「三日後にはこの家をきっぱり出ていきます。離婚の手続き、縁切りの書類もまとめてお願いします」
怜司の体が一瞬揺れた。私の手首を掴み、「咲の祝いを台無しにしたくて、弁護士まで巻き込んで芝居か!」
怒りを押し殺した声で、「くだらない真似はやめろ!いい加減にするんだ!澪。恥さらしだ」
そう言い残して、咲を抱き寄せ、出ていった。
赤くなった手首を見下ろして、私は笑ってしまった。
どうせ……わかってたことだ。怜司は、私のことなんて、信じたことなんてなかった。
体の痛みに耐えながら、私は一人で離婚協議書にサインをした。
私が死ぬその日、怜司のもとに、署名済みの離婚協議書と遺産分配の書類が届くだろう。
死までの三日間、自分の手で、この結婚に終止符を打つ。
その間も、夫は別の女を腕に抱き、栄誉とやらのために乾杯している。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)