10年の恋を捨てて、私は晴れ空へ歩き出す第1話
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退職を前に、上司から尋ねられた。
「神谷本部長は、部長に昇進したら結婚すると約束してくれたんでしょう?あと一歩なのに、どうして急に辞めるの?」
私は、雨水に濡れたスラックスの裾に目を落とした。
「傘が一本しかなかったからです」
脳裏によみがえったのは、土砂降りだった昨日のことだ。
傘を忘れた私・宮下栞(みやした しおり)は、会社のエントランスから出られずにいた。同じように足止めされていたのが、神谷啓介(かみや けいすけ)の新しいアシスタント、篠原朱里(しのはら あかり)だった。
傘を一本だけ持って下りてきた啓介は、迷うことなく朱里を選んだ。彼女とは、交際を疑われる心配がないからだ。
啓介は私を見ると、淡々と言った。
「栞、俺たちは特別な関係なんだ。こんなことで余計な噂を立てられる必要はないだろう」
一つの傘に入って遠ざかっていく二人の背中を、私は長いあいだ呆然と見つめていた。
やがて意を決し、降りしきる雨の中へ飛び出した。
啓介と付き合って10年。彼からいちばん多く聞かされたのは、「特別な関係だからこそ、公私を分けるべきだ」という言葉だった。
だから、通勤はいつも一人。昇進の機会は、いつもほかの誰かに譲らされた。
今では、同じ傘に入ることさえ望んではいけないらしい。
退職届の控えを受け取ったあとも、外では小雨が降り続いていた。
けれど今度は、自分の傘を差し、落ち着いた足取りで歩き出した。
啓介。もう私は、決してこちらへ傾くことのないその傘を必要としていない。
* * *
会社を出る頃には、雨脚も次第に弱まっていた。
傘を畳んだ瞬間、向かいのカフェで啓介と朱里が食事をしているのが目に入った。
普段はほとんど笑わない啓介が、今は目元を和らげ、くつろいだ様子で笑っている。
一瞬、目の前の光景が信じられなかった。
私の前で、あんなふうに心から笑う彼を見なくなって久しい。
我に返ったときには、啓介がもう目の前まで来ていた。口調はいつもどおり、事務的だった。
「篠原と外回りに出ていて、雨で動けなくなったから、ここで食事をしていただけだ。さっきはひどい雨だったのに、どうして会社の外にいたんだ?もうすぐ部長への昇進が決まる大事な時期だ。風邪をひいて、仕事に支障を出すなよ」
そこへ朱里が追いついてきた。
彼女に気づいた啓介は、反射的に横に一歩ずれ、私との距離を広げた。
「俺たちは先に行く」
私の返事を待たず、啓介は朱里を連れて立ち去った。
また人目を気にしているのだと、すぐに分かった。
恋人同士だから、社内では必要以上に話してはいけない。一緒に仕事をしても、一緒に通勤してもいけない。
この10年、私が見てきたのは、こうして足早に遠ざかっていく彼の背中ばかりだった。
けれど、もう私はその場に立ち尽くし、遠くから見送ったりはしない。
帰宅すると、バッグから退職届の控えを取り出し、リビングのいちばん目につく場所に置いた。
啓介が帰ってきたら、一度きちんと話すつもりだった。
啓介は仕事帰りに食材を買い、そのまま帰宅した。家に入るなり、慣れた手つきでエプロンを締め、キッチンに立った。
料理を食卓に並べ終えて、ようやく傍らに立つ私に気づいた。
「帰ってたのか。食べよう」
部屋には、食器がかすかに触れ合う音だけが響いた。
いつからだろう。私たちは、話すことさえなくなっていた。
職場で始まった線引きは、いつしか家の中にまで入り込んでいた。
最初は、誰もが認めるほど仲がよく、息の合った恋人同士だったのに。
今では向かい合って座っても、どちらからも話題の一つすら出てこない。
最後にまともな会話をしたのは、朱里と副部長の座を争ったときだった。
選考の結果、朱里は落選し、私が副部長に昇進した。
ところが結果が発表されたその場で、啓介は役職者たちを前に、朱里をかばった。
今回の選考は公平性に欠けると言い、朱里がどれほど優秀で努力家か、副部長にふさわしい人材かを熱弁した。
恋人が競争相手を懸命に褒めるのを聞く痛みは、昇進の喜びをはるかに上回った。
その夜、私は胸にたまった思いを抑えながら、啓介に打ち明けた。
けれど、彼は表情一つ変えずに答えただけだった。
「俺は事実を言っただけだ。篠原は実際に優秀で、昇進に値する。それに、俺たちは特別な関係だ。だからこそ、公私を分けなければ余計な噂を招く」
私だって、朱里の実力を否定したことはない。
けれど、私の努力も能力も、決して偽物ではなかった。
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