和紙文風に散る霧、過ぎし日の痕 · 第1話設定≡

風に散る霧、過ぎし日の痕第1話

この話は約3980字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

病院でCRT、すなわち認知機能リハビリテーションを受けていた三浦夢乃(みうら ゆめの)は、警察から一本の電話を受けた。

「もしもし、三浦さん。ご主人の墜落事故による行方不明の件で、新しい情報が入りまして......」

その言葉を聞いた瞬間、夢乃は嬉しさと緊張で胸がいっぱいになり、点滴を乱暴に抜き取った。

目を赤くしながら、急いで警察署へ向かった。

しかし――

ずっと思い焦がれてきた、あの懐かしい横顔の傍らには、一人の女が立っていた。

「ねぇ、礼。私、まだお腹すいてるんだけど?いつまで仕事してるの?

早く帰って、私を満たしてよ?」

甘えるような声。

その奥には、明らかな挑発が滲んでいた。

一瞬で、夢乃の期待は奈落へ落ちていった。

彼は――

一年もの間、事故で失踪した夫の佐藤風雅(さとうふうが)ではなかった。

彼はその双子の弟、もうすぐ義妹の三浦茜(みうらあかね)と婚約するはずの男、佐藤礼(さとうれい)だった。

再び押し寄せる失望。

夢乃は、無理に引き抜いた点滴跡の、青紫に腫れた腕を押さえながら、ひとりで警察署を後にした。

視界が熱く滲むまま、暗い通路に歩みを進めたその時――

「風雅兄さん!」

茜の声が、静寂を裂いた。

夢乃は、その場に立ち尽くした。

* * *

病院でCRT、すなわち認知機能リハビリテーションを受けていた三浦夢乃(みうら ゆめの)は、警察から一本の電話を受けた。

「もしもし、三浦さん。ご主人の墜落事故による行方不明の件で、新しい情報が入りまして......」

その言葉を聞いた瞬間、夢乃は嬉しさと緊張で胸がいっぱいになり、点滴を乱暴に抜き取った。

目を赤くしながら、急いで警察署へ向かった。

しかし――

ずっと思い焦がれてきた、あの懐かしい横顔の傍らには、一人の女が立っていた。

「ねぇ、礼。私、まだお腹すいてるんだけど?いつまで仕事してるの?

早く帰って、私を満たしてよ?」甘えるような声。その奥には、明らかな挑発が滲んでいた。

一瞬で、夢乃の期待は奈落へ落ちていった。

彼は――

一年もの間、事故で失踪した夫の佐藤風雅(さとうふうが)ではなかった。

彼はその双子の弟、もうすぐ義妹の三浦茜(みうらあかね)と婚約するはずの男、佐藤礼(さとうれい)だった。

再び押し寄せる失望。

夢乃は、無理に引き抜いた点滴跡の、青紫に腫れた腕を押さえながら、ひとりで警察署を後にした。

視界が熱く滲むまま、暗い通路に歩みを進めたその時――

「風雅兄さん!」茜の声が、静寂を裂いた。

夢乃は、その場に立ち尽くした。

「風雅兄さん。今回は本当にただの誤報で良かったね。

もしあの事故で墜落したっていう弟さんに本当に消息があったら──

あなたが同じ顔を利用して、彼の身分と婚約者を横取りしてるってこと、全部バレちゃうところだったわよ?」

「どうしたの?まさか怖くなった?」

「私はね......ただ、夢乃に、またあなたを奪われるんじゃないかって、それだけが怖いの。

だって......あの頃、海外であなたと一緒に留学してたとき、彼女が突然会いに来なければ、あなたに婚約者がいるなんて知らずに、あんなふうに傷ついて一人で帰国したりしなかった。

それから母と一緒に三浦家に引き取られて......私は三浦家の次女になって、礼と政略結婚することになって──」

茜は唇を尖らせながらも、どこか甘えるようにつぶやいた。

その仕草に、風雅の瞳がわずかに揺れる。

「馬鹿だな。忘れたのか?一年前......俺は会社の研究施設にある記憶ポッドを使って、夢乃の俺に関する記憶は全部整理して消しておいたんだ」

――ドーンッ。

その瞬間、夢乃の頭の中で雷が落ちたように、世界がひっくり返った。

全身の血が、一瞬で凍りつく。

身代わりの偽りの身分?記憶の消去?信じられない。

暗がりの中、同じ顔なのに、まったく別人のように見える横顔を夢乃は見つめた。

車にもたれかかった身体が、理由もなく細かく震え始めた。

......

「でも......二人は幼なじみでしょ?本当に彼女のこと、もう......愛してないの?」茜が不安そうに探るように問う。

風雅は茜の腰を抱き寄せ、唇の端をゆっくり上げた。

「子どもの頃の淡い恋なんて、今の......君への欲には敵わないよ」

茜は恥じらうように、指先で彼の胸元をなぞる。

その仕草に風雅の呼吸が荒くなり、茜をマイバッハのボンネットに押し倒した。

唇を奪われ、舌が絡むほどに深くキスを交わした。指が触れ合い、身体が熱を帯び──

「風雅兄さん......っ、ここ......外だよ......」

風雅は茜の耳たぶを甘く噛み、低く笑った。

「さっきお腹すいたって言ったのは、どこの誰だった?

......ほら、今からたっぷり食べさせてやるよ」

交わる甘い声が、夜気の中に漏れた。

夢乃の顔色は、紙のように真っ白になっていた。

自分の名前を口にするときだけ、酷く冷えるような声になる男。

いま別の女を抱いている男。その男が夢乃の最愛の夫、風雅だった。

彼女の喉から、乾いた笑いが漏れた。涙が止まらず、視界を曇らせる。

胸を裂くような痛みに追われながら、夢乃は車を走らせた。

記憶の断片が、嵐のように脳内で暴れ出す。

けれど、どれも完全につながらない。混乱、痛み、恐怖。

「──ッ!」

大型トラックとの激突音だけが世界を切り裂いた。

強烈な衝撃。息が詰まる眩暈。額から落ちる血が、唇に鉄の味を残す。

その瞬間──

記憶ポッドで混乱させられていた記憶が一枚一枚、夢乃の中に戻ってきた。

......

一年前──夢乃と風雅は入籍したばかりだった。

その直後、長年行方不明だった礼が、家に戻された。

三浦家の父は、茜を礼との婚約に推した。

礼が海外出張へ行き、飛行機事故で行方不明になった頃──

佐藤家の研究施設で「記憶ポッドの事故」が起きた。

それは、夢乃の母が生前研究していた技術。

夢乃は、真相を確かめるため自ら装置に入り......

その隙に風雅は、夢乃の記憶を都合のいいように書き換えた。

だが帰宅途中に事故に遭い、夢乃の脳はさらに混乱した。

激しい頭痛、断片記憶、混乱。

そして延々と続く認知機能リハビリテーション治療。

思い出した瞬間、夢乃の涙はまた溢れた。

彼女と風雅は、幼い頃からずっと一緒に育った幼馴染だ。

家同士の身分も釣り合っていた。

そして二人がまだ子どもの頃、両家の大人たちはすでに二人を許嫁として決めていた。

青春の、あの淡い恋の始まりも——告白したのは風雅の方からだった。

その日から、彼は彼女を本当に大切にし、甘やかし、守ってくれた。

特に、三浦父の裏切りと三浦母の突然の死。

あのどうしようもない絶望の時。

風雅は、遠い海外の大学から夜通しで飛行機に乗り、すぐに戻ってきた。

強く抱きしめてくれて、ずっとそばにいてくれた。

そして何度も、何度も、約束してくれた。

「夢乃。俺がいる。ずっと愛してる。どんな時も、そばにいるから」

その後、二人は婚約し、結婚した。すべて順調で、当然の流れのように思えた。

……あの突然の事故が起こるまでは。

けれど今——

真実を知ってしまった今——

かつての情熱も、大切にされた記憶も、全部が嘘みたいに思える。

彼女を支えてくれた日々。彼を想い続けた夜。愛を失った苦しさと崩れ落ちるような痛み。

その全部が——

他の女のために、最愛の夫が自分の手で仕掛けた罠と偽りだったなんて。

......

再び目を開けた時、自分は病院のベッドにいて、隣には誰もいなかった。

点滴の血が逆流し、手のひらを赤く染めた。身体より、心の方が痛かった。

その時──

病室の扉が乱暴に開いた。

「夢乃!大丈夫か?どうして事故なんて!」焦った声。

その声色に、礼であるはずの男は、思わず素の自分を出してしまった。

夢乃がじっと見つめると、彼は慌てて表情を整えた。

「ゆ、夢乃......無事で良かった。

もし何かあったら......兄さんに合わせる顔がないよ」

夢乃はかすかに笑った。

「兄さんに......ね?礼......」

言いかけた瞬間、茜が飛び込んできた。

「礼っ!どうして私を呼んでくれないの?

もしかして......昨日の夜、私が疲れちゃってるの、心配だった?」

風雅の目が一瞬だけ泳いだ。

「茜、ふざけるな。夢乃はケガしてるんだぞ」

「......あ、そうだ。お姉ちゃん、ごめんなさい。

全部、礼が昨日、私を......その、寝かせてくれなくて──

でもお姉ちゃんの顔に傷がなくて良かった。

だって一ヶ月後の私たちの婚約式に、綺麗な顔で来てもらわないとね?」

茜の一言一言が、鋭い棘になって夢乃の胸に突き刺さる。

さらに、茜は夢乃の腕を掴み、点滴針の跡をわざと強く押しつけた。

ずきり、と激痛が走る。

夢乃は咄嗟に茜の手を振り払った。

乾いた音と共に、茜の頬に赤い跡がついた。

その瞬間、薬を取りに出ていた風雅が戻ってきた。

茜はすぐさま風雅の胸に飛び込み、泣きついた。

「お姉ちゃん!

私、お姉ちゃんに嫌われてるのは分かってるけど......

でも、殴るなんて......ひどいよ!」

風雅は激昂し、茜を抱き締めた。

「夢乃......お前、どうかしてるのか?

茜はお前の妹で、そして......俺、礼の妻なんだぞ!」

夢乃は乾いた笑いを漏らした。

「妹?......ふん。

どうせ三浦家の出来の悪い継娘じゃない」

「──ッ!」

風雅の額に青筋が浮かぶ。

「夢乃。茜の顔に傷が残ったら......

兄さんが生きていようがいまいが、俺は絶対にお前を許さない」

そう言い捨て、風雅は茜を抱いたまま病室を出て行った。

扉が閉まった瞬間、夢乃の堪えていた涙がぽたりと落ちた。

震える手で、枕元のスマホを掴む。通話はすでに繋がっていた。

夢乃は、震える声で言った。

「......さっきあなたが言ってたこと......考え直したわ。

一ヶ月後──結婚式は予定通り行いましょう。

新郎として、必ず出席してほしい......礼」

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