風だけが、知っている第2話
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ビザセンターの窓口で、千紗は最後の書類を差し出す。
職員が手早く確認し、顔を上げる。「はい、書類は全部揃ってますね。結果は一か月後、メールでお知らせします」
千紗は小さくうなずいた。「ありがとうございます」
振り向いて、出口へ歩き出そうとする瞬間。
「どこへ行くつもりだ!」
不意に響いた声が、空気を裂いた。疑いと怒りを含んだ、聞き慣れた声。
千紗の足が止まり、ゆっくりと振り返る。
数メートル先に、怜司が立っていた。険しい顔をして。
その腕にしがみついているのは美和。千紗と目が合った瞬間、美和は怯えたように目を伏せ、それでも唇の端がかすかに上がる。
千紗の唇がわずかに動いた。何かを言おうとしたその瞬間、怜司は冷たく言葉を遮った。
声には苛立ちが混じり、まるで当然のように命じる調子だった。「ちょうどいい、わざわざ言う手間が省けた。月末の海外オークションには、美和を連れて行く」
怜司は横目で美和を見て、声の調子をわずかに和らげた。「美和はまだこういう場を知らないんだ、見せてやろうと思って。お前はもう何度も行ってるだろ。もう飽きただろうし、今回はやめておけ」
千紗は呆然と立ち尽くす。
一週間前――
怜司は書斎で彼女を後ろから抱きしめ、顎を彼女の髪に預けながら、オークションカタログをめくっていた。指先で一枚のページを指し、微笑んで言った。「このピンクダイヤ、お前に似合う。百回目のプロポーズはこれにしよう」
その言葉を、彼はもう忘れていた。
千紗は黙って怜司の顔を見つめた。冷たい光を宿したその瞳に、言葉は一つも届かないと悟った。
彼女は小さくうなずいた。「……わかった」
「待て」怜司の声が低く響いた。命令のように。「一緒に行こう。車は外にある」
建物の前に、見慣れた黒いベンツが停まっていた。千紗はいつものように助手席へ向かい、ドアに手をかけた。
その瞬間、怜司の眉がぴくりと動く。
「怜司さん!」美和が甲高い声を上げ、シートの背を指さした。そこには、明るいピンクのハローキティのステッカー【美和専用席】
「ほら、貼ったままだよ!」
声には、甘ったるい笑いと、勝ち誇った響きが混じっていた。
千紗の手が宙で止まった。落ち着いた車には似つかわしくない、子どもじみたステッカーが目に入る。胸の奥を、見えない手で強く握り潰されたように痛みが走った。熱いものが鼻の奥までこみ上げ、視界が滲む。
その席に、彼女は十年近く座ってきた。
怜司が一瞬だけ視線を逸らし、わずかに咳払いした。だが次の言葉は容赦なかった。「美和は車酔いするんだ。後ろの席じゃきつい。悪いけど、今回は後ろに座ってくれ」
――悪いけど。
千紗の胸の奥で、何かがひどく痛んだ。けれど声には出さなかった。「……わかった」
彼女は静かに頷き、手を引いて後部座席のドアを開けた。
車内はもう、まるで別の場所だった。
ピンクのウールのクッション。甘ったるくて、むせ返るようなアロマの匂い。座席ポケットには、美和のお菓子がぎっしり詰まっている。
自分の痕跡は、跡形もなく消えている。
車が動き出す。
前の座席から、ふたりの声が絶え間なく続く。
「怜司さん、スイスって今寒いの?」
「寒いよ。白い毛皮のコート、持ってきただろ」
「やった!あの雪山が見える部屋に泊まろうね!」
「ああ、いいよ」
ひとつひとつの言葉が針のように胸を刺した。
千紗は顔を背け、窓の外を必死に見つめた。街の景色が勢いよく後ろへ流れていく。爪が手のひらに深く食い込み、痛みが遅れてやってくる。
ぼんやりした一瞬、景色が重なった。
何年も前――そのときも、この同じ車だった。怜司は初めて千紗を海外に連れて行き、窓の外の見知らぬ景色を興奮したように指さしていた。
その手で、彼女の手をぎゅっと握りしめ、チケットもホテルの予約票も旅程表も、全部彼女に押しつけて笑った。「これからは、どこへでも一緒に行こう」
そのとき、彼の目には彼女しか映っていなかった。
――ギィッ。
――ドンッ!
突然、激しい衝撃が車体を襲う。
世界が回転する。金属が軋み、ガラスが砕ける音が響く。
車は横滑りしながら止まる。
千紗の身体は後部座席に押し潰され、痛みが全身を貫く。
呼吸をするたび、胸が焼ける。血の匂いが鼻を満たした。
前の座席から、うめき声が聞こえた。
次の瞬間、怜司の声。震えた声が、恐怖に滲む。
「美和!美和!大丈夫か!?安心しろ、俺がいるから!救急車!早く!」
……彼は、忘れていた。
後ろにも、もうひとり人間がいることを。
千紗が、まだ息をしていることを。
千紗は、潰れたドアの隙間から、血にまみれた手で、少しずつ這い出した。
血が片方の目を塞ぎ、動くたびに意識が遠のく。
ようやく身体を引き抜き、冷たくざらついた路面に倒れ込む。息を荒く吐き出しながら、全身が震えて止まらない。
千紗は、必死に頭を持ち上げた。
眩しい陽射しが目を焼き、視界が滲む。
怜司は美和を横抱きにし、恐る恐る抱きかかえていた。まるで世界でいちばん壊れやすい宝物を守るように。よろめきながら、狂ったように救急車へ駆け寄っていった。
彼は、一度も振り返らない。ほとんど廃鉄と化した車を、見ようともしない。
後ろの席に、まだひとり残っていることも、思い出しもしない。
千紗は冷たい地面に崩れ落ち、血と埃にまみれた顔で、救急車のドアが閉まるのを呆然と見つめている。その扉がふたりの姿を遮り、サイレンの音とともに遠ざかっていく。
温かい血が額を伝い、ぽたりと地面に落ちる。
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