風だけが、知っている第3話
この話は約2703字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
病院の中は、騒然としている。
怜司はほとんど怒鳴るように、駆けつけた主任医師の胸ぐらを掴んだ。「助けろ!早く治せ!一番いい薬を使うんだ!最高の医者を呼べ!」
目は血走り、指先まで震えていた。そのすべての焦りと恐怖は、今まさに手術室へ運ばれていった少女――美和に向けられていた。
混乱がようやく収まったとき、ようやくひとつの思いが、止まりかけた頭に落ちた。
――千紗。
怜司の心臓が強く縮み、慌ててポケットに手を突っ込む。震える指先でスマホを探りながら、秘書に連絡して現場へ向かわせようとした。
そう思った瞬間、廊下の端に見慣れた影が見えた。
千紗だった。彼女はゆっくりと歩いてきた。まるで刃の上を進むように、ぎりぎりの足取りで。
額の血はすでに乾き、その暗い赤が蒼白な頬に生々しく残っていた。埃まみれの服が痛々しく、その姿は惨めで脆く見えた。
怜司の胸が痛む。ほとんど走るように彼女へ駆け寄り、腕を支えた。「千紗!大丈夫か?どこをケガしたんだ?さっき……」
怜司は言葉にならないまま、千紗の血の気のない顔を見つめた。遅れてやってきた恐怖が、胸の奥を締めつける。「美和がさっき気を失ったんだ。お前のことを忘れてたわけじゃない、わざとじゃないんだ」
千紗は顔を上げた。その瞳は虚ろで、怜司の焦った顔を見つめながらも、何も映していなかった。
彼女はそっと、その手を振りほどいて、ひとことも、言わなかった。
怜司は、千紗の死んだような反応に、かえって動揺した。無意識に視線を下げ、そして息を呑んだ。
彼女のすねには、長く深い傷が走っていた。皮膚は裂け、血と埃にまみれ、周りは青黒く腫れ上がっている。痛々しいほどの光景だった。
さらに目を奪われたのは、その傍らにあるいくつもの古い傷跡だった。白い肌に刻まれた、細く硬い線。
怜司は知っていた。千紗が傷跡の残りやすい体質だということを。
この十年間、彼は細心の注意を払い、新しい傷をひとつも増やさせないように守ってきた。
「先生!こっちへ!早く診てくれ!」怜司の声が鋭く響いた。通りかかった医師の腕を強く掴み、怒鳴りつける。「最高の薬を使え!最高の技術で治すんだ!絶対に跡を残すな!いいな!」
そして、千紗の肩を押さえ、必死に言葉を重ねた。「大丈夫だ!今の医療は進んでる、傷跡なんて残らないはずだ」
彼の瞳には、本気の心配と焦りがあった。千紗は、その色を見て一瞬だけぼんやりした。
そのとき――手術室の扉がわずかに開き、看護師が顔を出した。「朝倉さん!柚木さんが目を覚ましました。情緒が不安定で、あなたを呼んでます!」
怜司の身体がびくりと固まった。すぐに首をめぐらせ、視線を手術室の方へ向ける。その目にあった焦りが、瞬く間に別の方向へ移った。
看護師が、声を落として続けた。「顔の傷が少し深くて……感染もあります。組織が一部壊死しかけていて、処置をしても……おそらく、普通には治りません。永久的に凹んだ跡が残るかもしれませんし、顔の筋肉にも影響する可能性があります」
手術室の中から、美和の泣き声が響いた。胸を裂くような、叫びにも似た声だった。
怜司の顔色が何度も変わる。救急室の方を見ては、すぐに千紗の脚へ視線を戻す。その瞳の奥で、激しい迷いが揺れていた。
そして次の瞬間――何かを振り切るように、怜司は千紗の前に歩み寄った。喉が上下に動き、声は乾いて掠れていた。「千紗……美和の顔が、ひどく傷ついたんだ。医者が言うには、少しでいい、健康な皮膚を移植すれば治るって」
千紗ははっと顔を上げ、怜司を見つめた。信じられず、思わず息を呑む。今の言葉が幻聴ではないかと思った。
反射的に首を振り、身体をわずかに引いた。
「ほんの少しだけだ!」怜司は慌てて言葉を継いだ。だが、その目は彼女の視線をまっすぐに受け止められず、すぐに手術室の方へ逸らされた。
中から聞こえる美和の泣き声が、怜司の背を押した。「美和はまだ若い。顔に傷が残ったら一生が台無しになる。千紗……」彼は一瞬、言葉を詰まらせた。喉の奥でその言葉が焼けるように熱く、それでも、吐き出した。「十年の恩を返すと思ってくれ。俺はお前を十年、養ってきた」
――十年の恩。
その言葉が、まっすぐに千紗の胸に突き刺さった。心の奥をえぐられ、血の気が引いていくのがわかった。
目の前の男を見つめる。十年寄り添ったはずの人。けれど今そこにいるのは、もう知らない誰かだった。彼の顔には、別の女のために心を焦がす痛みが浮かんでいた。その視線の先で、自分の脚にはまだ血の滲む傷。ついさっきまで「絶対に跡を残さない」と誓ったその口が、今は別の女のために皮膚を求めている。
胸の奥を押し潰すような痛みが広がった。言葉にならない苦しさが喉を塞ぎ、息さえ重かった。
千紗は唇を開いたが、声は出なかった。
そして――極めてゆっくりと、首を縦に振った。
怜司はほっと息を吐いた。けれどその顔に浮かんだのは、安堵とも痛みともつかない表情だった。彼は視線を逸らし、慌ただしく命じる。「早く!手術の準備をしろ!麻酔を強めろ!絶対に痛がらせるな!」
そう言い残して、怜司は救急室へ駆け戻った。泣きじゃくる美和を抱きしめるために。
千紗はストレッチャーに乗せられ、手術室へ運ばれた。まぶたを閉じたとき、熱い涙がひとすじ頬を伝った。
麻酔が効き始める直前、千紗の脳裏に浮かんだのは、ただひとつの思いだった。
――これで、いい。
一枚の皮で、十年の借りを返す。
目を覚ましたとき、麻酔の余韻がまだ身体に残っていた。世界が薄い靄に包まれているようで、意識は遠く霞んでいた。
脚に、鈍い痛みがじわじわと広がる。
千紗は、ゆっくりと首を傾けた。
病室の中。怜司は少し離れたソファに座っていた。けれど、その視線も手も、すべては腕の中の細い影に注がれていた。
美和は頬に包帯を貼り、怜司の胸にもたれながら、かすかにすすり泣いていた。
怜司は優しく彼女を抱き、背中を撫でていた。「泣くな、もう大丈夫だ。手術はうまくいったから、跡は残らない。俺がついてるからな」
怜司の声は、驚くほど優しかった。そして真剣だった。その優しさも、視線も、心のすべてが――もう別の人に向けられていた。
千紗はそっと視線を逸らした。震える指先で、布団の端を静かにめくる。
太ももの外側には、厚いガーゼが重ねられていた。
その縁から、赤く腫れた皮膚がわずかに覗いている。
かつて、彼女がいちばん恐れていたもの。
――傷跡。
今、それが本当に残っていた。
胸の奥が痛んだ。まるで、あの皮膚と一緒に心までもえぐり取られたように。
けれど、それでいいと思った。
一枚の皮で、十年分の借りを返した。
――これで、帳消しだ。
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