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風だけが、知っている第1話

この話は約2251字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

彼がようやく異変に気づいたのは、若い恋人を連れて海外へ逃避行してから、私からの連絡が途絶えて、丸ひと月が経ったあとだった。

「千紗(ちさ)の脚の傷、もう治ったか?あいつの皮膚を美和(みわ)に移植させたが、怒ってはいないだろうな」

電話の向こうで、秘書は長く黙り込む。そして、ためらいがちな声で告げた。

「高瀬さんは一か月前に退院されました。もう、朝倉(あさくら)家にはいません」

その瞬間、彼の脳裏にあの日の光景がよみがえる。

ホテルの天井が崩れ落ちたあの瞬間、自分が反射的に抱き寄せたのは、彼女ではなく美和だった。

そして、がれきの向こうで見た――

千紗の瞳は、もう何も映していなかった。

それは悲しみではなく、静かに閉じていく光だった。

* * *

朝倉怜司(あさくら れいじ)の支援を受けて十年、高瀬千紗(たかせ ちさ)は海外企業からのオファーを受け取った。

カフェのテーブルを囲む友人たちが、半ば叫ぶような声で騒いでいる。

「千紗、本気で言ってるの?もうビザまで取ったって?なんでそんな急に!」

「そうよ、朝倉さん、あんたのことどれだけ大事にしてきたと思ってるの?十年だよ?お姫さまみたいに甘やかされてきたじゃない!」

「九十九回もプロポーズしたんだよ!みんなで見てきたんだから!映画よりロマンチックで、あんた一度も頷かなかったのに、それでも朝倉さんは諦めなかった。それこそ本当の愛じゃないの?」

「まさか柚木美和(ゆのき みわ)のせいじゃないよね?あの子、新しく朝倉さんに支援された子でしょ?身の上が可哀想だからちょっと構ってるだけで、比べ物にならないって!」

「そうそう、あんなの一時の気まぐれよ、朝倉さんの本命はどう見たってあんただってば!」

「……」

愛?

千紗は顔を上げた。喧しい声を通り越して、向かいの通りに視線を向ける。

見覚えのある黒い車が、ゆっくりと止まる。運転席の男が身を傾け、隣の少女の髪を、ごく自然に撫でて整える。

怜司だった。

その隣で美和が、顔を上げて笑っている。目尻が柔らかく弧を描き、その横顔が――若い頃の自分に、少し似ていた。

怜司の顔に、久しぶりに見る笑みが浮かぶ。力の抜けた、優しさすら感じる穏やかな表情。

けれどそれは、もう半年以上、千紗には向けられたことのない笑みだった。彼が自分を見るときの顔はいつも、疲れていて、どこかうんざりしている。

友人たちも、千紗の視線を追ってその光景を見てしまう。笑い声が止まり、空気が凍る。

「……偶然じゃない?たまたま見かけただけよ、きっと」

「朝倉さんも、ああやって誰かに……」

言葉が続かない。

千紗は視線を戻し、カップを手に取った。コーヒーをひと口。苦味が舌に広がり、胸の奥まで染み込んでいく。

「ごめん、ちょっと疲れたの。海外に行くことは、もう決めたから」

立ち上がり、静かに微笑んで店を出た。

午後の風が頬を撫でた。陽は暖かいのに、なぜか肌寒かった。

十年。

あの日、彼に拾われたときのことを思い出す。湿った匂いの部屋の隅で、怯えて息を潜めていた自分。

怜司はそんな自分を見つけ、手を差し伸べた。礼儀を教え、世界を見せ、贅沢も愛情も惜しみなく与えた。

彼の隣に立つことが、すべての誇りだった。

九十九回のプロポーズ。そのどれもが華やかで、完璧で、夢のように美しかった。

けれど心のどこかで、いつも不安が囁いていた――これは夢だ、目が覚めれば消えてしまう。

だから彼女は、待った。もっと自分が相応しくなるまで、この愛を信じ切れる日が来るまで。

変化が始まったのは、一年前。

怜司は美和を連れて現れ、少女の髪を撫でながら、冗談めかして言った。「千紗、見てみろよ。お前の小さな代わりを見つけたんだ。面白いだろ?」

やがて美和が、彼女の大切にしていたオルゴールをわざと落とした。怒る千紗に、怜司は眉をひそめて言った。「子どもみたいに怒るな、あの子はまだ若いんだ。壊れたなら、もっといいのを買えばいい」

香水の匂い。知らない番号からのメッセージ。説明も、否定もない。代わりに届くのは、ブランドの袋と「わかってくれ」の一言。

疲れた声で、彼は言った。「頼むよ千紗、少しは理解してくれ。俺だって忙しいんだ」

最後のプロポーズは、九十九回目。星空の下で指輪を差し出した怜司の瞳は、どこか遠くを見ていた。「次で百回目だ、今度こそ頷いてくれるんだろ?」

けれど、百回目は来なかった。

その代わりに訪れたのは、酔った夜のことだった。怜司は千紗の肩を抱き寄せ、軽く笑いながら、残酷な声で言った。「千紗、正直に言うとな……どんな料理でも十年も食えば飽きる。おとなしくしてりゃ、そのうち新鮮味も冷める。そしたら結婚してやるよ」

――飽きた。

その言葉が、胸の奥に突き刺さった。

そして、最後の幻想は、先週の二十五歳の誕生日に、音もなく砕け散った。

彼女は夜通し待った。メッセージ一つ、電話一本、来ないまま朝が来た。

スマホに最後に届いたのは、匿名の送り主からの数枚のぼやけた写真だった。ホテルの前で、怜司が美和の腰を抱き、親しげに中へ入っていく。

十年のあいだ、彼が自分の誕生日に姿を見せなかったのは、これが初めてだった。

その瞬間、心の中で、何かが静かに崩れ落ちた。

千紗は歩みを止め、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。

千紗は顔を上げ、枝葉の隙間から空を見上げた。高くて、青い。

スマホを取り出し、メールを開く。そこには、海外企業から届いたオファー。返信欄に指を滑らせ、たった一言を打ち込む。

――【よろしくお願いします】

十年の夢から、目を覚ます時がきた。

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