音もなく雪が降る第3話
この話は約2432字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
遠くない歩道で、電話に出た乃安は急に足を止めた。
後ろを振り返って、また前を見て、躊躇っていた。
この先は、彼の買ったビルで、子を産んでから尚昔のように自分を満足してくれる優しい心晴が、そこで自分を待っていた。
後ろは、篠崎グループで、瑞雪と共に建てた会社であった。そこには、二人の数えきれないほどの思い出が詰まっていた。
地獄の選択に、乃安は一瞬だけ迷った。一瞬だけ。
「今本当に忙しくて、手が離せないんだ。ごめんね、自分で病院に行って。それか、江平先生を呼んでくるとか……」
瑞雪は電話をピッと切った。
探るのはいい。探る必要もなくなったし。
仮面を被って接しなければ感じられない愛なら、それはもう愛ではない。さっさと手放すべきだ。
スマホをサイレントモードにし、カバンの一番奥にしまって、瑞雪はその場でタクシーを降りた。篠崎グループの本社の前の道を沿って、一歩一歩、足でこの都市をなぞるように歩き回っていた。
計算したら、この世界に来てすでに十年も経っていた。
十年間、彼女は乃安のことで頭がいっぱいで、乃安のことで笑って、乃安のことで泣いてきた。この辺りの景色はちゃんと見たこともなければ、ちゃんと感じ取ることもなかった。今、彼女は初めて気づいた。この作者に書かれた本の世界は、実はこんなにも美しい都市なのだと。
半ヶ月後、彼女は徹底的にここを出ることになる。今のうちにしっかりと目に焼き付けないと、いつか思い返しても、語ることもできないであろう。
外で夜10時過ぎまで遊んで、家に帰ったらやはり誰もいなかった。
不在着信や未読のメッセージはたくさん来ていたが、瑞雪は全部無視して、削除した。
小屋裏から空っぽのダンボールを取って、部屋に戻り、荷物を片付け始めた。
高いブランドのジュエリーやカバンから。
本の外から来たのだから、本の中のものは持ち帰れないし、乃安や心晴に残すわけにもいかない。だとしたら、自分の名義の株式や不動産と一緒に寄付したほうがマシだ。弁護士の手伝いもあるし。
ダンボール一箱があっという間にいっぱいになった。
中身は瑞雪がこの十年間使ったすべてのジュエリーやカバンだった。自分で買ったものも、乃安からもらったものも。
【翌朝、取りに来てください】と、弁護士にメッセージを送ってから、瑞雪はようやく安心して、歯を磨いて眠れた。
いつの間にか、乃安は帰ってきた。起きた時点で、彼女はすでに抱きしめられていた。
気持ち悪く感じ、瑞雪は反射的にその腕から抜け出した。
乃安は顔を下げ、空っぽな両腕を見て、悲しそうな顔色をした。
「ごめんな、瑞雪、わざと一人にしたわけじゃないんだ。昨日本当に忙しかったんだ。謝罪するために、朝ご飯に瑞雪の大好きな海鮮粥を作ってあげたよ。仕事が大変で妻と一緒にいられなかった俺も可哀想だからさ。今回だけは許してくれない?」
一夜も帰らなかったくせに責任転嫁とは、よくもできるね。
瑞雪は口を半開きにし、何か言おうとしたところで、乃安の少し乱れたパジャマの襟から、何気なくあの挑発的な赤いキスマークを見た。
あんなに赤く輝いているのだから、昨日残したものに違いない。
心晴がどれほど力強く、こんなキスマークを残したのだろうか。
乃安は知っているだろうか。もし知っているなら、隠そうとはしているのだろうか。
それとも、彼からして、彼女はただの自我のない人形で、何でも自分の言うことを信じるとでも思っているのだろうか。
自嘲するように軽く口角を上げ、瑞雪は細い声で言った。
「もちろん許してあげるわ。あなたはこの家のために、駆け回ってるんでしょ。ただ、いつも一人で寝てるから、いきなり誰か来て、ちょっと慣れてないだけ」
乃安は固まった。ふと一週間前、子供の病気で、出張の日程を三日後ろ倒しにしたことを思い出した。
三日間の子供の看病と四日間の出張と一日の密通で、瑞雪とは、もう八日間も一緒に寝れていたなかった。
乃安は後ろめたくなってきた。
「一人で会社を経営するの、確かに昔よりは忙しくなったな。落ち着いたら、長期休暇を取って、ちゃんとそばにいてあげるよ、な?」
言い訳をする時まで、被害者面か。
瑞雪は更に意味深な笑みを浮かべた。
「うん。待ってるわ」
乃安は結構料理が上手だった。
海鮮粥の食感は柔らかく、上手く組み合わせた料理と合わせて、向こうの人は目障りだが、瑞雪はお腹がいっぱいになるまで食べた。
満足げに朝食を済ませた彼女を見て、乃安も安心して出勤に出かけた。
彼が出てから間もなく、弁護士の土谷さんが来た。
片付けた荷物を土谷さんに渡し、瑞雪は引き続き荷物の片付けに取り組んでいた。
知り合ってから三年後、付き合って四年を経て、結婚してまた三年経った今、この十年間ずっと一緒にいた時間で、思い出になるものは数え切れなかった。
渡したばかりのジュエリーやカバン以外、クローゼットに詰まった洋服や靴、どこにでもある花瓶や掛け絵などの小物、お出かけや旅行の時に買った記念品やお互いに贈ったプレゼントなどなど。
自分で買ったものにせよ、乃安からもらったものにせよ、瑞雪は自分の所有するものを全部集めた。
あと十四日で、彼女は消えるのだ。
消えるなら、跡も残さず消えたかった。
彼女は紙切れすら、丁寧に片付けて処理した。乃安にメッセージが残せるものを全部。
気づいたら、もうすぐ正午だった。出前を待っている間、乃安が先に帰ってきた。
海市の夏はよくゲリラ豪雨が降り出していた。雨に打たれ、じめじめになった服を乾く余裕もなく、彼は暗い顔色をして部屋に駆けてきて、瑞雪に問いかけた。
「俺達の結婚指輪は?瑞雪、君が失くしたのか?」
もうバレたの?
瑞雪の黒い瞳に、いきなり背徳の快感の含んだ光が輝いた。
「失くしたんじゃなくて、財団法人に売ったのよ。
急に寄付がしたくなってね。あなたがくれたジュエリーやカバンを、ぜーんぶ片付けて売ったの。
乃安自身にも貧困だった時期があるから、きっとわかってくれるよね?応援してくれるよね?」
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