和紙文霞に迷う夕暮れの舟 · 第2話設定≡

霞に迷う夕暮れの舟第2話

この話は約2338字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

通話を切ると、結衣は足を引きずりながら一人で誕生日パーティーの会場へ戻る。

遠くからでも、驚いた声が結衣の耳に届く。

「結衣、どうしたの!怪我してるじゃない!」

裕也の両親が心配そうな顔で結衣の方へ駆け寄ってくる。その騒ぎに、茜を伴って来賓に挨拶し、和やかに話していた裕也も気づいた。

結衣がふと足元に目を落とすと、さっきの事故でできた擦り傷から血が伝い、白いドレスの片方の裾が赤く染まっている。

裕也の母はすぐにスタッフを呼んで応急手当を指示し、途中で抑えきれずに裕也を叱りつける。

「結衣がこんなに傷ついているのに放っておいて、どうでもいい相手を抱きかかえて大事にするなんて……誰があなたの婚約者か、忘れたの?まったく、あり得ないわ!」

「もういい!」

裕也は茜を庇うように抱き寄せ、うんざりした口調で言い返す。

「母さん、俺は一度だって結衣を婚約者だと認めていない。ずっとそっちの思い込みだろ」

前世で幾度となく聞いたセリフだが、今も胸が鈍く痛む。

伊藤家と夏目家は代々の付き合いだ。裕也と結衣も幼なじみとして共に育った。

しかし、結衣が八歳の年、一緒にキャンプへ出かけた二つの家族は、不運にも土石流に遭遇した。

結衣の両親は土石流が迫る中で裕也を庇い、そのまま飲み込まれた。救助隊に見つかった時には、すでに息絶えていた。

そのとき、まだ幼かった裕也は、結衣の両親の遺体の前に膝をつき、結衣を生涯守ると固く誓った。

それから結衣は正式に伊藤家に引き取られ、裕也にまるでお姫さまのように甘やかされてきた。

誕生日は毎年、街中の話題になるほど盛大に祝ってくれて、オークションでは、結衣が何気なく褒めた宝石を惜しげもなく大金で競り落としてくれた。

そんな優しく頼もしい存在に、結衣は当然のように恋をし、未来の夫だと信じ込んでいた。

けれど、すべては裕也が茜を救ったあの日で途切れた。

助けられた茜は、あれこれ理由をつけて裕也のそばにいるようになり、やがて二人は心を通わせて恋に落ちていった。

裕也の気持ちも、最初の同情から次第に守りたいという想いへ、ついには茜を家に連れてきて、両親の前に跪き、この人こそ生涯を共にしたい相手だと告げたのだ。

結衣はただ見ているしかなかった。裕也の自分への態度が、少しずつ嫌悪へと変わっていくのを。

結衣が伊藤家に迎え入れられたときから、裕也の両親は彼女を将来の嫁と見なしていた。そして、十八歳の誕生日には、大勢の来客の前で婚約を公にしたのである。

こうしてそれは裕也の枷となり、彼はことあるごとに、結衣が恩義を楯に自分の一生を縛ろうとしているのだと責め立てた。

そう思い至った結衣は、裕也の母の手をそっと押さえ、視線を裕也に向けて落ち着いた声を放つ。

「裕也兄さん、あなたの言うとおりだ。これまでずっと私の片思いだった。あなたを追い詰めるべきじゃなかった。

今日で婚約は解消して、ただの兄妹に戻ろう」

その言葉が落ちた瞬間、会場の空気は張りつめ、誰もが驚きに目を見開く。

裕也は無意識に拳を握り、深く眉根を寄せる。

「結衣、その手には乗らない。一度身を引くふりをして、俺に茜を諦めさせ、自分を選ばせようっていうのか?本気で言ってるんだろうな?」

裕也の母はさらに心配そうに、結衣の額に手を当てた。

「熱もないのに、どうしてそんな馬鹿なことを言うの。安心して。私とお父さんがいる限り、裕也には約束を守らせて必ずあなたを妻に迎えさせるから」

結衣はどうしようもなく、苦い笑みを浮かべる。

周囲は彼女の言葉を冗談だと受け取っていたが、二度目の人生を生きる結衣には、もう前と同じ結末を迎える気などない。

「おじさん、おばさん。心配しないで。このことは、私から裕也兄さんときちんと話すから」

「そう……分かったわ。二人でよく話し合いなさい。わだかまりなんて、言葉にすれば解けるものよ」

結衣の表情があまりに沈んでいたため、それ以上は言葉を重ねなかった。裕也に鋭い視線を二度送り、二人は会場を後にした。

裕也は結衣を振り返りもしないまま、茜の手を引いてケーキのもとへ向かう。

壇上で二人が並んでケーキを切る温かな光景を見上げながら、結衣は深く息を吸い、そっとスタッフの耳元に何かを囁く。

それからオペブースへ歩き、手元のスイッチを操作を始める。

次の瞬間、会場の照明がふっと落ち、辺りは一瞬の闇に包まれた。間もなく、すぐに巨大なスクリーンが映し出され、明かりが会場を照らした。

映し出されたのは、裕也と茜のツーショットの写真、そして裕也がまだ渡せずにいたラブレターの数々。

切々と綴られた言葉に、場の誰もが心を揺さぶられる。茜の瞳にも涙の光が宿る。

茜の誕生日のために、裕也は一か月以上も準備を重ね、この街の名だたる人物たちまで招いていた。

結衣は知っている。前の人生では、あの事故さえなければ、裕也はこの場で茜に想いを告げるつもりだったのだ。

だから今度は、彼女の手で、彼にその願いを叶えさせる。

裕也は一瞬呆然としたが、スタッフが差し出した一束のバラを受け取り、茜の前で片膝をつく。

茜は口元を押さえ、信じられないという顔で問う。

「裕也、これが、あなたが用意してくれたサプライズなの?こんなにまでしてくれるなんて……」

裕也はかすかな笑みを浮かべ、そっと手を伸ばして茜の目尻の涙を優しく拭う。その指先は緊張のせいか小さく震えている。

そしてバラを掲げ、まっすぐに告げる。

「茜、好きだ。俺と付き合ってくれ」

茜は大きくうなずき、感極まった表情で花を受け取る。

「……はい、喜んで!」

そのまま二人は衝動のままに唇を重ね、会場は割れんばかりの拍手に包まれる。

オペブースの前に立つ結衣は、マウスから手を離し、その光景を微笑みながら見つめる。やがて涙がこぼれる。

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