霞に迷う夕暮れの舟第1話
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夏目結衣(なつめ ゆい)は、迫り来る大型トラックの前で咄嗟に伊藤裕也(いとう ゆうや)を突き飛ばし、その身代わりとなって両脚を砕かれた。
病院で目を覚ますと、いつもは冷ややかで誇り高い彼が、初めて頭を下げた。
ベッド脇に立った裕也は、結婚しようと言った。八歳の頃から想い続けてきた彼の言葉に、結衣は涙ぐみながらうなずいた。
けれど結婚してからというもの、裕也は夜ごと家を空け、結衣への態度は冷え切っていた。
脚の感染で死のふちに立たされたその時でさえ、莫大な財産を持つ裕也は、結衣のために余分な金を一円たりとも出そうとはしなかった。
「結衣、あの時お前が俺を庇ったことに、感謝したことは一度もない。
俺たちの結婚は最初から間違いだった。
もう終わりにしてくれ」
そう言うと裕也は、重いまなざしのまま、彼女の酸素チューブを引き抜いた。
結衣は瞳を見開いたまま、深い悲しみに呑まれ、息を引き取った。
彼女は思った――もし人生をやり直せるのなら、二度と裕也なんて好きになりたくない。
* * *
夏目結衣(なつめゆい)は、迫り来る大型トラックの前で咄嗟に伊藤裕也(いとうゆうや)を突き飛ばし、その身代わりとなって両脚を砕かれた。
病院で目を覚ますと、いつもは冷ややかで誇り高い彼が、初めて頭を下げた。
ベッド脇に立った裕也は、結婚しようと言った。八歳の頃から想い続けてきた彼の言葉に、結衣は涙ぐみながらうなずいた。
けれど結婚してからというもの、裕也は夜ごと家を空け、結衣への態度は冷え切っていた。
脚の感染で死のふちに立たされたその時でさえ、莫大な財産を持つ裕也は、結衣のために余分な金を一円たりとも出そうとはしなかった。
「結衣、あの時お前がぼくを庇ったことに、感謝したことは一度もない。
俺たちの結婚は最初から間違いだった。
もう終わりにしてくれ」
そう言うと裕也は、重いまなざしのまま、彼女の酸素チューブを引き抜いた。
結衣は瞳を見開いたまま、深い悲しみに呑まれ、息を引き取った。
彼女は思った――もし人生をやり直せるのなら、二度と裕也なんて好きになりたくない。
……
再び目を開けると、結衣は交通事故のあの日に戻っている。
視界いっぱいに、トラックが突っ込んでくる。
刹那、結衣の体は反射的に前世と同じ行動をとり、命を懸けて裕也を突き飛ばす。
だがその瞬間、裕也がすぐに反応し、結衣と高橋茜(たかはし あかね)を同時に抱き寄せ、車道から引き離した。
そして結衣の肩を乱暴に掴み、怒鳴りつける。
「何をしている!死ぬ気か?誰がお前なんかに救われたいと言った!」
結衣はその場に崩れ落ち、無意識に自分の両脚に手を当てる――まだ健在なその脚を。
彼女は、この日のことを一生忘れることはない。
裕也が茜のために開いた誕生日パーティーで、茜は裕也の両親と口論になり、涙ながらに会場を飛び出した。そして道路に飛び出した茜は、トラックに轢かれそうになった。
裕也は命も顧みず彼女を救おうと駆け出し、その身を庇った結衣は、代わりに両脚を失った。
その後、裕也は障害を負った結衣を妻として迎え入れたが、心の奥では彼女を恨み続けていた。結衣に救われたことで、長年想い焦がれてきた初恋の茜を諦めざるを得なかったからだ。
そしてついに、結衣が病に倒れ、残された脚の感染に蝕まれていたとき、裕也はその手で彼女の命を終わらせた。
思いもよらず、運命は彼女にやり直す機会を与えた。けれど、その展開は前とはまるで異なっていた。
結衣は呆然と目の前の裕也を見つめる。その鋭い眼差しには、若さに不釣り合いな威圧感が宿っている。
そのとき、少し離れた場所で倒れていた茜が、か細い声で裕也を呼ぶ。
裕也は結衣を突き放し、すぐさま茜のもとへ駆け寄る。
「茜、大丈夫か?どこか痛めてないか?」
その声と仕草に込められた優しさは、前世で十年以上も裕也と夫婦として過ごした結衣が、一度として感じたことのないものだった。
茜は顔をしかめ、首を振る。
「平気……ただ、もう歩けないの」
その言葉が終わるより早く、裕也は彼女を軽々と抱き上げる。
「大丈夫だ。俺が抱き上げて連れて帰る。まだお前に見せたいものがある」
そう言い残し、結衣に目を向けることもなく、裕也は茜を抱いたまま足早に会場へと歩き去る。
その背中を見送りながら、結衣は苦笑を浮かべる。
けれどその笑みには、どこか吹っ切れたような清々しさがある。
運命がこの瞬間に彼女を生まれ変わらせてくれたのなら――もう二度と、裕也の重荷にならなくていい。
結衣はスマホを取り出し、海外にいるおじさんの神崎誠(かんざきまこと)へ電話をかけた。
血縁こそないが、誠はかつて父の援助を受けた縁で、結衣を実の家族のように思い、何度も海外に迎え入れようとしてくれていた。
だが結衣は裕也のそばにいたい一心で、その誘いを何度も断ってきた。
けれど今度の人生では、結衣は裕也のために身を引き、彼の世界から完全に姿を消そうと決めた。
「誠おじさん……考え直したの。私、あなたと一緒に海外で生活するわ」
電話口の誠の声には、抑えきれない喜びがそのまま滲んでいる。
「結衣、本当か?よかった!もう部屋も準備してある。学業を続けたいなら応援するし、やりたいことがあれば全部僕に任せろ。出発の日は決めてあるか?迎えを手配するからな」
長い歳月を過ごしたこの地を離れ、誤った愛に終止符を打つ。その決意に、結衣の目はじんわりと潤む。
「二週間だけちょうだい。こっちのことを全部片づけたら、すぐにそっちへ行くから」
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