雲の如く、自由な空へ第2話
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雫は最速で離婚協議書をプリントアウトすると、小野寺グループへと急いだ。
司は一日の大半を会社で過ごす。以前の雫は、それを彼の仕事人間ゆえの性格だと思い込んでいた。
しかし、これまで一度も足を踏み入れたことのなかったこの「禁域」に立った今、雫は、壊れかけた結婚を庇い続けていた自分がどれほど滑稽なのかを、ようやく思い知らされた。
オフィスにはピンク色のラグが敷き詰められた。ミニマリズムを基調としたモノトーンのソファには、オフィスにそぐわない可愛らしいぬいぐるみが山のように積まれている。それどころか、引き裂かれた女性用のストッキング数本がその上に放り出されている。
雫は離婚協議書を握りしめる手に力を込め、冷淡な声で言った。
「司はどこ?急用があるの。この重要な書類にサインしてもらいたい」
アシスタントは気まずそうに咳払いをした。
「社長は西内さんと休憩室にいらっしゃいます。今は……手が離せない状況ですので」
「手が離せない」理由など、もはや説明されるまでもない。
雫は吐き気を堪えながら一度引き返そうとしたが、会社の入り口でボディガードたちに遮られた。
そこへ、泣きじゃくる美咲を抱きかかえた司がやってきた。彼は慈しむように視線を落とし、美咲の涙を拭ってやっている。雫には一瞥もくれない。
「やれ」
雫が反応する間もなく、ボディガードたちが彼女を地面に組み伏せた。無遠慮な手が彼女の体を探り、力を込めて布地を力任せに引き裂いていく。
雫はもがきながら叫び、声はほとんど枯れかけていた。
司は冷徹な眼差しで彼女を見下ろした。
「被害者面をするな。オフィスには君しか入っていない。
その結果、美咲が母親の形見として大切にしていたネックレスが叩き割られ、ゴミ箱に捨てられてた。
どうしても美咲を攻撃するというのなら、こちらも相応の罰を与えるまでだ」
雫はようやく事態を把握し、露出しかけた胸元を惨めな思いで覆い隠した。
血走った瞳に屈辱の涙を浮かべ、雫は顔を上げて司を睨みつけた。
「司、あんたは本当に頭が悪いの?!私がやったのなら、それをオフィスに捨てるわけないでしょ!」
その言葉に、司は初めて雫ををまともに見た。冷酷な黒い瞳に、わずかな驚きが走った。
結婚して五年間、雫がこれほど激しく怒ったのは初めてのことだから。
だがその迷いも、腕の中の美咲の泣き声ですぐに打ち消された。
「あれは母が亡くなる前に遺してくれたものですよ……
社長が私に優しいから、奥様がずっと私を嫌ってたって分かってます。でも、社長の気を引くためにあんな酷いことをしなくてもいいじゃないですか」
それを聞くと、司の瞳に納得の色が浮かび、先ほどの一瞬の慈悲は嫌悪と皮肉へと変わった。
司がボディガードに罰するようとしたその時、アシスタントが血相を変えて駆け寄り、彼の耳元で何かを囁いた。
常に冷静沈着な司の顔に、珍しく焦りの表情が浮かんだ。彼は大股で歩み寄ると、雫の最後の下着まで引き裂こうとしていたボディガードを蹴り飛ばした。
そして雫を乱暴に引きずり起こすと、開口一番こう言い放った。
「俺の所有してるクラブへ行け。
美咲が実務に慣れておらず、不注意で小数点を見間違えた。
かなりの欠損が出てる。君がカタをつけてこい」
ようやく息を吹き返した雫だったが、その言葉に心臓が激しく痛んだ。
司の顔に思い切りビンタを食らわせてやりたかったが、両手はまだ拘束されたままだ。
「どうしてあなたの愛人の尻拭いをしなきゃいけないのよ」
司は雫の冷笑を浴びても怒りを見せず、声のトーンだけを和らげた。だが、その瞳は依然として冷え切っている。
「これさえ解決すれば、ネックレスの件は水に流してやる。
忘れるなよ。あの日、映画館で撮られた君の写真が、まだ俺の手元にあるんだ」
十数年も愛し続けてきたその美しい顔が、初めて、吐き気を催すほど醜く歪んで見えた。
目尻から涙が静かにこぼれ落ちる。雫はもう抵抗しなかった。彼女は懐に隠し持っていた離婚協議書を取り出した。
「これにサインして。そうすれば、行くわ」
司は即座にアシスタントから私印を受け取った。彼は内容を一瞥することすらなく、署名欄に印を叩きつけた。
そして協議書を床に投げ捨てた。
「分かってる。結局は金が欲しいんだろう?
取引相手がこれ以上責任を追及しないよう収めてくれば、不動産でも車でも宝石でも、望むものは何でもやる」
雫は震える手で離婚協議書を拾い上げ、消え入りそうなほど淡い声で言った。
「いいえ、結構よ。これさえあれば、もう十分」
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