雲に心なく、ただ風の吹くままに第1話
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藤宮景(ふじみや けい)と恋人になって八年目、中林結奈(なかばやし ゆな)は病気で入院した。
退院の日、結奈は廊下で偶然、景と彼の姉の会話を耳にしてしまう。
「景、気は確かなの?本当に結奈に黙って、彼女の骨髄を斉藤和葉(さいとう かずは)にあげたの?」
「結奈の体が弱いって知ってたでしょ。なのに胃の病気で入院と偽って、こんな危険を冒させたの?」
斉藤和葉は景が長年想いを寄せる幼馴染だった。
結奈は泣きも喚きもせず、海外にいる両親に電話をかけ、橘(たちばな)家との縁談に同意した......
* * *
「景、気は確かなの?本当に結奈に黙って、彼女の骨髄を斉藤和葉(さいとう かずは)にあげたの?」
臨城のとある私立病院で、藤宮琴音(ふじみや ことね)は慌ただしく病室に駆け込み、ソファに座る藤宮景(ふじみや けい)を指差して罵倒した。
景はわずかに顔を上げ、整った顔には苦渋の色が浮かび、力なく呟いた。
「姉さん、結奈だけが和葉ちゃんの骨髄と適合したんだ。仕方なかったんだよ」
琴音はテーブルの上にあった、中林結奈(なかばやし ゆな)が感染症で半年以上入院していたことを示す診断書を手に取り、目を通すと怒りを爆発させた。
「仕方なかった?結奈の体が弱いって知ってたでしょ。なのに胃の病気で入院と偽って、こんな危険を冒させたの?」
「まったく、どうかしてるわ。あの女は景に何か呪いでもかけたのかしら?あの時、彼女の気を引こうとレースに出て五年も足が動かなくなった。その五年間、ずっとそばにいたのは結奈よ」
「今、景は体が治って、あの女は病気になって桜井家の次男に振られて帰国した。それなのに結奈に隠れて彼女の骨髄をあの女にあげるなんて、しかも、その病気が癒えてからまだ半年も経っていないのに、今度はあの女ととんでもない体外受精までしたなんて!」
病室の入口で、結奈は退院手続きを終えたばかりだった。琴音の怒りに満ちた言葉を聞いてしまった。
壁に添えていた手がはっと強く握り締められた。顔から笑みが消え、全身が氷の穴に突き落とされたかのようだった。
三十分ほど前、担当医者から胃の手術後の感染症は完治し、退院できると告げられたばかりだった。
景はその場でプロポーズしてくれた。結奈は嬉しさのあまり涙を流し、SNSにも「今日は最高に幸せな日」と投稿したところだった。
病室の中にいる、景が俯き、さらさらとした黒髪が彼の黒い瞳を隠し、表情は窺い知れない。
「姉さん、このことは秘密にしてくれ。結奈には知られたくない。和葉ちゃんのおばあさんはもう長くないんだ。生きているうちに孫の顔が見たいというのが唯一の望みなんだ。心残りをさせたくない」
琴音は目を見開き、美しく整った顔は怒りに燃えていた。
「じゃあ結奈はどうなるの?結奈が景を八年間も好きだったことは、この業界で知らない人はいないわ!」
「はっきり覚えているわよ。八年前、あの女が桜井家の次男に告白して振られた時、景は彼女のために腹いせしたくて、わざと結奈に近づいて気を引いた。結奈のことが好きな桜井家の次男をへこませるために!」
「その結果、今度はあの女を妊娠させたんでしょう?結奈は景に八年もついてきたのよ。結奈をどうするつもり?」
景は目を伏せたまま、しばしの沈黙の後、掠れた声で言った。
「全部手配済みだ。結奈は一生、和葉ちゃんの妊娠を知ることはない。将来のことだが、この八年で結奈の存在には慣れたし、結婚してあげるつもりだ......」
それ以上の言葉を、結奈はもう聞いていなかった。
看護師がちょうど病室に向かってきたので、結奈は俯き、たった今戻ってきたかのようなふりをした。
病室の二人は顔を見合わせ、琴音は景を引っ張って出て行った。
帰り道、景は結奈と結婚式の詳細について話し合っていたが、結奈の耳には一言も入っていなかった。
窓の外に流れていく高層ビルを見ながら、ただ全身が冷え切っていくのを感じていた。
景と初めて出会ったのは、十五歳の時。両親とそのビジネスパートナーとのパーティーでのことだった。
あの時の、ふとした瞬間の少年のクールで気品ある姿が、それ以来、結奈の頭から離れなかった。
十六歳、「ムオン」という名前でレースに参加し、景の命を救った。そこから長い片想いが始まった。
二十歳、桜井陽介(さくらい ようすけ)に言い寄られた。同じ頃、景が結奈と共通の友人のパーティーに参加し、その夜、彼の方から彼女のSNSアカウントを追加してきた。
その夜は一晩中嬉しかった。
同じ年、景には斉藤和葉という幼馴染がいることを知った。しかし和葉は自由奔放な性格で、十数人の彼氏を作ったものの、景のことだけは好きではなかった。
二十一歳、景から告白され、彼女は付き合うことに同意した。
二十二歳、景がレースで事故に遭い、病院に運ばれ緊急手術を受けた。翌日、医者は景が足が不自由になったことを宣告した。
その年、足が不自由になった景はまるで別人のように変わり、気性が暗く荒々しくなった。彼への愛から、両親と共に海外へ移住することを断り、国内に残って彼を介護することを選んだ。
二十七歳、景の足が完治した。藤宮家の当主である祖父は、藤宮家の実権を彼に渡すと公表し、景は一時、得意の絶頂にあった。
同じ年、彼女は家で突然意識を失い、目覚めると医者から胃の病気だと告げられ、入院して手術が必要だと言われた......。
今、よく考えてみれば、天から降ってきたかのような甘い関係だと信じていたものは、最初から嘘で塗り固められていたのだ!
半年以上前、病院であんなにたくさん血を抜かれたのは、景が検査のためだと言っていたが、それは和葉に骨髄を提供させるための嘘だったのだ!
ベントレーはゆっくりと高級住宅街に入っていった。
深夜十二時、景のスマホが鳴った。
結奈はちらりと着信表示を見た――「可愛い和葉ちゃん」
景は軽くスライドして通話を切り、長い指で画面を軽くタッチした。しばらくして、彼は立ち上がり、急いで出て行った。
結奈は窓辺に歩み寄った。
果てしない闇の中、あのベントレーが次第に遠ざかっていく。
結奈は母親に電話をかけた。
「お母さん、決めたわ。橘家との縁談、受けさせて。七日後、空港に着いたらすぐに彼と籍を入れる」
母親は娘が何を経験したかおおよそ察したようだ。慰めながら、辛抱強く説明した。
「本当に決めたの?結奈、今の中林家は昔とは違う。今回の縁談はお遊びじゃないのよ。橘家と藤宮家は遠く離れているけれど、代々敵同士で、犬猿の仲なのよ」
「もし橘家と縁談を結べば、橘家の人は藤宮家との一切の関わりを断つように要求するかもしれない」
電話の向こうで、結奈は潤んだ瞳を伏せた。
六年前、中林家は事業拡大のため会社を海外に移転し、それ以来海外に居を構えていた。
しかし、海外移転後まもなく、中林家は経済危機に見舞われた。同じく海外にいた橘家は何度も中林家との縁談を申し入れてきた。
しかし、両親は娘が藤宮景を好きなことをよく知っており、娘の結婚を犠牲にして会社を支えることなど考えもしなかった。
今、結奈はもう藤宮景と一切関わりたくない。だからこそ橘家に嫁ぐのが最良の選択になった。
「お母さん、決めたの。もう一生、藤宮景の顔なんて見たくない!」
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