過去を越えて――南城の記憶第3話
この話は約1471字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
ずっと昔、私は誠一郎に恋をしていた。
あの頃の私はただの平凡な高校生。
対する彼は「完璧な子」そのものだった。成績優秀で、顔立ちも整っていて、どこか遠い存在。
ほんの一瞬、遠くから彼を見ただけで――心が震えた。
若さゆえの淡い恋心は、音もなく芽生え、ただひたすらに膨らんでいった。
噂で聞いた、彼には幼馴染がいると。名前は月島麗華。
彼がその幼馴染をどれほど大切にしているかも聞いていた。
私は心底、麗華が羨ましかった。
何もしなくても、彼は自然と彼女の方へ歩み寄るのだから。
私は――誠一郎の体調を気遣うためだけに、甘やかされて育った自分を捨て、家事を一から学んだ。
彼のために、彼の好物を作れるようになりたくて。
初めて彼の好きな料理を作った時、フライパンに残っていた水が原因で油が跳ね、大きな火傷を負った。
腕にできた傷を見て、激痛に涙したあの日を今でも覚えている。
その傷を見るたび、今の私は皮肉に笑いたくなる。
この6年間、私は何を得たというのだろう?
唇をきつく結び、溢れそうになる涙を堪えながら、スマホで打ち込んだ。
「特に何も。ただ、明日は真白の幼稚園の保護者会があります」
私は本当に、この場所を去るべきなのだと思う。
麗華が帰ってきたのだから。
誠一郎はもう私を必要としないだろう。
真白の部屋に入ると、そっと窓を閉め、毛布を掛け直してその額に軽くキスをした。
「真白、これからもいい子で育ってね。
たとえ、ママがそばにいられなくても」
部屋の薄暗い灯りに照らされながら、できる限り静かに動く。彼女の眠りを邪魔しないように。
私は結婚証明書を取り出した。
丁寧に保管していたそれは、ビニール袋に包まれていて新品同然だった。
そして、その隣に置いた離婚届――麗華が戻ると知った日から準備していたもの。
すべてが終わりを迎えるのだと、改めて実感した。
深夜、玄関の鍵が開く音が聞こえ、誠一郎が帰ってきた。
私はキッチンに立ち、水を一杯用意する。
「真白は寝てるから、静かにしてね」
そう言って、彼に水を渡した。
彼が一口飲んだところで、私は静かに立ち上がり、寝室から離婚届を持ってきた。
「これに目を通して。問題がなければ、サインしてほしい」
彼は驚いたように目を見開いた。
「これは……どういうことだ?」
「月島さんが戻ってきたでしょう?もう私はここにいる理由がないと思うの。
家はきれいに掃除しておいたわ」
静かに、そして冷静に言葉を続けた。
「荷物は私が持ち出すから、月島さんがすぐにここで暮らせるわ」
彼は少し迷うように離婚届を置き、低く言った。
「この話は、明日にしよう」
以前なら私はそれで妥協していたかもしれない。
でも、今はただ早くこの場所を離れたかった。
誠一郎が私を本当に理解したことなど、一度もなかったと思う。
私だって、彼を本当に分かっていたかは怪しいけれど――ただ、高校生の頃に見た彼に恋をして、10年以上も彼を想い続けただけだった。
でも今目の前にいる彼は、私の知る誠一郎とは全く違う。
私は立ち上がり、何も言わず荷物を持って家を出た。
誠一郎が追いかけてきて、その顔は怒りに染まっていた。
私はスマホを取り出し、友人に引っ越しの手伝いを頼む電話をかけた。
電話を終えると、彼に向き直って言った。
「明日は真白の幼稚園で保護者会があるの。ちゃんと行ってあげて。待たせないでね」
「どうして急に離婚なんて言い出すんだ?」
誠一郎が怒りを抑えきれない声で問いかけてくる。
私は彼の目をじっと見つめた。そこには冷たい視線が映るだけ。
「ただ、疲れたのよ。もうこれ以上は無理。
誠一郎――これで全て終わりにしましょう」
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