過去を払って、四月の風と歩む第3話
この話は約2338字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
朔の手配により、寧々は藤堂グループに入社した。
入社初日、凛が彼女を配属先の部署へ案内した。
「皆様、ご紹介します。こちらは浅野寧々さんです」
凛は少し間を置いて付け加えた。
「藤堂社長の奥様でもいらっしゃいます。今後ともよろしくお願いしますね」
一瞬、場の空気が凍りつき、すぐに周囲から様々な思惑の籠もった視線が向けられた。
その日から、目に見えない壁が寧々の周りを取り囲むようになった。
同僚たちの会話は彼女が近づくと自然に途切れ、全体での集まりの連絡からは意図せず漏れ、彼女に割り当てられる仕事は、誰も引き受けたがらない厄介な案件ばかりだった。
これが「特別扱い」の結果であることはわかっていたが、彼女はただ黙々と、自分の職務をこなしていた。
リゾート開発プロジェクトの進行を任された時のことだった。事前の交渉は順調だったが、立ち退き要請が出された途端、地元住民の感情が急激に悪化し、立ち退きに同意せず、対立がエスカレートしていった。
ある日の午後、寧々が報告書をまとめていると、オフィスの外から突然騒ぎ声が聞こえてきた。
部署のアシスタントがパニック状態で駆け込んできた。
「浅野さん、大変です!住民の人が本社の屋上に登って、飛び降りると叫んでいます!」
寧々は心が沈むのを感じながら、急いで屋上へ駆け上がった。朔と凛も同時に到着していた。
屋上には強い風が吹き荒れていた。感情を昂らせた中年男性が屋上の縁に立ち、腕を振り回しながら、藤堂グループが強引に家を奪い、人々の生活を台無しにしていると声枯らして叫んでいた。
ビルの下では、パトカーのサイレン、メディアの報道の声、野次馬の悲鳴が入り混じっていた。
交渉人が説得を試みていたが効果はなく、男はさらに激昂し、片足をすでに空中に投げ出していた。
その場にいる全員が固唾を飲んだ。
寧々は深呼吸をして、前の人たちを掻き分け、その絶望した男を見据えて冷たい声で言った。
「飛び降りれば、問題が解決すると思っていますか?
藤堂グループが、たった一つの命のためにこのプロジェクトを諦めると思います?あり得ません。彼らはあなたの死を『住民の暴動』として片付けるだけです。あなたの家族も補償金なんて一銭も受け取れませんよ。
あなたが死んだら、誰が奥さんと子供を養いますか?誰が両親の面倒を見ますか?あなたの命と引き換えに、家族が世間から後ろ指を指され、一生苦しみの中で生きることになります。それがあなたの望みなのですか?」
その一言一言が男の最も痛いところを突いた。男は呆然とし、顔に浮かんでいた狂気は巨大な悲しみへと変わった。
最終的に、その隙を突いて近づいた警察官によって彼は救出された。
寧々の張り詰めていた神経が急に緩み、背中にはびっしょりと冷や汗をかいていた。
ただ、彼女はこの危機が、序の口に過ぎないとは思いもよらなかった。
誰かが動画をネットに投稿したのだ。それは彼女が屋上で説得していた言葉を悪意を持って切り取り編集したもので、センセーショナルな見出しがつけられていた。
【藤堂グループ社長夫人、権利主張者を冷酷に追い詰める。人の命は無価値だと断言】
動画は瞬く間にネット上で炎上した。
同時に、藤堂グループの社員を名乗る匿名の告発があり、寧々がコネで特別入社し、傲慢な性格で有能な古参社員を排除していると書き込まれた。
世論は一瞬にして沸騰し、彼女の個人情報は特定され、無数の罵詈雑言と殺害予告が彼女の個人アカウントに殺到した。
朔を困らせたくない一心で、寧々はすべてを黙って耐え忍んだ。
しかし、車で帰宅する途中、悪質なあおり運転に遭い、危うく大事故になりかけたことで状況は変わった。
このまま黙っていれば、次はただの脅かしでは済まないと彼女は悟った。
だが、調査の結果は彼女を驚かせた。動画の提供者は、凛の妹である結城瑠奈(ゆうき るな)であり、今回のネットリンチを煽ったのも彼女だったのだ。
警察に通報しようとした矢先、朔が彼女を訪ねてきた。
「寧々、瑠奈はまだ若くて分別がないんだ。警察に通報すれば、彼女の一生を台無しにしてしまう。
彼女には君に謝らせる。動画も削除するように手配するし、世間の騒ぎもすぐに収まる」
寧々は怒りのあまり笑ってしまった。
「彼女は記者よ。あの編集された動画が何を引き起こすか、誰よりもよくわかっているはずよ。
それでも彼女はやったの。分別がないんじゃない、これは悪意に満ちた罠よ!」
「でも、君は実際に傷ついたわけじゃない」
朔は彼女を見て言った。
「取り越し苦労だったんだ。君の身辺警護は強化する」
その言葉に、寧々の首筋から冷たいものが這い上がってきた。
悪意に満ちた罵声も、道を歩けば後ろ指を指されることも、危うく死にかけた車の事故も、彼の目には驚くほど軽く、取るに足らないこととして映っているのだ。
ただ、それをやったのが凛の妹だという理由だけで。
彼女は警察に電話をかけた。
「もしもし、殺人未遂の告発をしたいのですが」
しかし、電話の向こうの相手は寧々の身分を聞き取ると、証拠不十分などの理由で彼女の被害届を拒否した。
朔は予想していたかのように、彼女に一枚の書類を差し出した。
「俺がいる限り、この蒼葉市(あおばし)で君の通報を受け付ける警察はない。
これにサインしてくれ。示談書だ。瑠奈も反省しているし、凛もこの件はこれで終わりにしてほしいと望んでいる」
午後の日差しは少し眩しかったが、寧々には少しの温もりも感じられなかった。
彼女は妥協を象徴するその示談書を見つめ、そして目の前にいる、かつて一生守ると誓ってくれた男を見た。
結局、彼女はただ俯き、署名欄に自分の名前をサインした。
ペン先が紙を滑るサラサラという微かな音は、何かが完全に断ち切られる音のようだった。
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