過去を払って、四月の風と歩む第1話
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浅野寧々(あさの ねね)が解雇された日、外は土砂降りの雨だった。
彼女は私物が詰め込まれたダンボール箱を抱え、オフィスビルの入り口に立っていた。雨のしぶきがズボンの裾を濡らしている。
一向に捕まらない配車アプリの画面を見つめながら、寧々は無意識に夫の藤堂朔(とうどう さく)に電話をかけていた。
長い呼び出し音の末にようやく繋がった電話の向こうから、会議を終えたばかりの掠れた声が聞こえてきた。
「何か用か」
寧々は口を開きかけた。
自分が3ヶ月間担当してきたプロジェクトが、コネ持ちの社員に奪われたことを言いたかった。
上司に抗議しに行ったら、逆に「使えないなら辞めろ」と罵られたことを言いたかった。
今日は二人が交際を始めてから7周年の記念日で、一緒に家に帰ってご飯を食べられないかと言いたかった。
だが、電話の背景音から、次の会議が始まることを知らせる声が聞こえてくると、すべての悔しさが喉の奥でつかえてしまった。
結局、彼女はただ伏し目がちに言った。
「ううん、なんでもない。仕事、頑張って」
かつて狭いアパートで、一晩中彼にこぼしていたような些細な愚痴は、もう打ち明ける資格すら失っていたのだ。
* * *
雨はさらに激しさを増していた。
彼はもう昔のように、雨に降られて立ち往生している彼女を迎えに行くためだけに、傘を差して急いで街の半分を横断してくるようなことは二度とないのだ。
彼女が雨の中に飛び出そうとしたその時、一台の黒い高級車が音もなく目の前に滑り込んできた。
車の窓が下がり、結城凛(ゆうき りん)の整った顔が覗いた。彼女が身に纏う仕立ての良いハイブランドのジャケットには、塵一つついていなかった。
「朔は会議で手が離せないから、私が迎えに来たのよ。
次から何かあれば直接私に連絡して。朔のチーフアシスタントとして、どうでもいい事で彼の仕事を邪魔させないようにするのが私の役目だから。
知ってるでしょ、彼はとても忙しいの」
寧々は言葉を失った。わかっている。4年前に藤堂家に戻ってからというもの、彼はすっかり忙しくなってしまったのだ。
7年前、寧々が山でスケッチをしていた時、血まみれになって倒れている朔を偶然見つけた。
当時の朔は記憶を失い、口もきけなかった。警察もお手上げの状態で、彼はすべての人を拒絶したが、寧々にだけは心を許した。
彼女はほだされ、彼を家に連れて帰った。
助け合いながら過ごした3年間。彼女は彼に世界を再認識させ、彼もまた彼女の平凡な生活を温かいものにしてくれた。
藤堂家の人間が探し当ててくるまで、彼女は拾ってきたこの言葉を話せない青年が、名門・藤堂グループの行方不明になっていた御曹司だとは知らなかった。
朔の母親、藤堂真知子(とうどう まちこ)は、小切手一枚で寧々を追い払おうとした。
「浅野さん、朔の将来の妻が、あなたのような普通の女の子であってはならないの。彼から離れてちょうだい」
朔はそれを知ると、夜通し車を走らせ、彼女を連れてかつて住んでいた小さな町へと舞い戻った。
その時、朔の名目上の婚約者であり、真知子が格好の嫁だと見込んでいた凛が申し出たのだ。
「おば様、私と朔はただの政略結婚で、愛情はありません。朔が本当に彼女を愛しているのなら、私も二人のために身を引きます」
この言葉で、まだ記憶が戻っていなかった朔は初めて凛をまともに見た。寧々もまた、彼女に対して深い感謝の念を抱いた。
あの頃、寧々は身分の壁を乗り越えた自分たちの未来は明るいと信じていた。
一体いつから変わってしまったのだろう。
彼女は目を閉じ、深く考えることを拒んだ。
手のひらに温かい感触が伝わってきた。凛が上品なスイーツの箱とベルベット生地の小箱を寧々の手に渡していた。
「これは朔から頼まれて用意した記念日のプレゼントよ。気に入ってくれるといいけど」
寧々は礼を言ったが、箱を開ける気すら起きなかった。
まったく同じ包装。モデルルームのように美しく整えられた家には、これと同じものが山のように積まれている。それらはすべて凛が選んだものだった。高価で上品で、藤堂グループの社長という朔の身分には相応しいが、寧々の心に響いたことは一度もない。
彼女はただ、朔が記憶を失っていたあの3年間を思い出す。記念日になれば、彼は豪華とは言えないまでも温かい手料理をテーブルいっぱいに並べてくれた。彼女が何気なく口にした好みを密かに覚えていて、サプライズにしてくれた。
今となっては、すべての特別な行事が、秘書の業務リストの一部へと変わってしまった。
車はすぐに藤堂グループ本社のビルに到着した。
凛は寧々を案内し、最上階の社長室へ直行した。エレベーターを降りた途端、会議を終えたばかりの朔と鉢合わせた。
身体にフィットしたオーダーメイドのスーツが、彼の長身をより一層引き立てている。
眉間には冷ややかな空気が漂っていたが、凛の濡れた肩を見た瞬間、彼は眉をひそめた。
「どうして濡れているんだ。休憩室で着替えてこい、風邪を引くぞ」
その後ようやく、彼は凛の後ろに立っている、同じように雨で濡れた寧々の姿に気がついた。
「どうしてここに来たんだ」
寧々が口を開く前に、そばにいたスタッフが声をかけた。
「藤堂社長、井上社長たちがまだ会議室でお待ちです」
朔は頷いた。
「凛、一緒に来てくれ」
彼は寧々の返事を聞く暇すらなく、凛を連れて慌ただしく再び会議室へと向かっていった。
寧々は社長室に入り、部屋の隅に視線を這わせたところで、ふと動きを止めた。
色褪せた赤い組紐が、ゴミ箱のそばに無造作に捨てられ、ほこりを被っていた。
それは4年前、藤堂家の人間が朔を連れ戻しに来た日、彼が無事でいることを祈って、彼女が涙を流しながら彼の手首に結んだものだった。
あの時、朔は彼女の手のひらに一文字ずつこう書いた。
宝物みたいに大切にする。絶対に外さない。
だが今、デスクの真ん中に置かれた職人手作りのペン立ては、まるで新品のようにピカピカに磨き上げられている。
それは去年、凛が彼に贈った誕生日プレゼントだった。
デスクの上がガランとしているから、ペン立てを置くのにちょうどいいと、その時彼は言っていた。
彼女が深く考えまいとしていた疑問に対する最も直感的な答えが、今ここにあった。
いつからか、朔の口から凛の名前が出る回数が増えていたのだ。
「会社のあの3年の危機は、凛が全体をまとめてくれたおかげで助かった」
「両親のことは、ずっと凛が上手く立ち回ってなだめてくれているんだ」
罪悪感、称賛……様々な感情が朔の心の中で目に見えない網を織り成し、凛を「不可欠な存在」という位置にしっかりと縛り付けていた。
寧々はしゃがみ込み、震える指先で赤い組み紐のほこりを払い、それを手のひらに強く握りしめた。
社長室のドアが再び押し開けられた。
疲れながらもリラックスしたような朔の声が聞こえてきた。
「凛、このところ苦労をかけたな。君がいてくれて助かった……」
その言葉は、寧々の姿を見た瞬間に途切れた。
「まだ帰ってなかったのか」
昔なら、彼女がオフィスに来れば、彼はいつも手を止めて笑顔で迎えに来た。帰る時も名残惜しそうにして、彼女をずっとそばに置いておきたいとでもいうように接していた。
今の態度とはまるで違っていた。
朔は少し赤くなっている彼女の目元を見ると、眉間を揉み、口調を和らげた。
「ごめん、そういう意味じゃない。最近やることが多すぎて、少し疲れているだけだ。
凛から、君が今日機嫌が悪くて下で雨に濡れていたと聞いた。どうしたんだ?何かあったのか」
寧々は鼻の奥がツンとするのを抑え、静かに口を開いた。
「3ヶ月担当していたプロジェクトを、今日の署名の時に突然担当から外されたの。このプロジェクトが終われば昇進できるはずだったのに……」
朔はネクタイを少し緩めた。
「桜ヶ丘のプロジェクトのことか」
寧々はハッとした。
「どうして知っているの」
「あそこにはうちが投資している」
朔は視線を上げた。
「凛の妹が帰国したばかりで、見栄えの良い経歴が必要だったんだ。凛から頼まれたから、彼女に譲った」
彼はまるで何でもないことのように、ただのプレゼントを渡すような口ぶりで言った。彼女が数ヶ月間奔走して築き上げた苦労を打ち砕いたことなど、微塵も感じていないようだった。
そういうことだったのか。
ただ、凛が口を開いたから。
それだけで、朔は寧々の3ヶ月の奔走を無視し、彼女にとって極めて重要なキャリアを犠牲にできるのだ。
彼女は黙って立ち上がり、ポケットの中の冷たい赤い組紐を握りしめた。もう彼を見ることはなく、まっすぐドアへと向かった。
「寧々」
朔が背後で彼女を呼んだ。
「君の能力なら、次のプロジェクトを成功させるのは時間の問題だ。こんなことで俺と揉めないでくれ。
俺もすごく疲れているんだ」
寧々は目を閉じた。
「疲れている」という言葉を聞くのは、これで何度目だろうか。
だけど、朔。あなたの疲れは、私が原因ではない。
彼女はドアを開けて外に出ると、馴染みのある番号に電話をかけた。
電話はすぐにつながった。
「お母さん」
電話の向こうの心配そうな声を聞くと、目頭が熱くなった。
「今年の年末は、そっちに帰るね」
電話の向こうで両親は興奮のあまり口々に捲し立てるように喜んだ。
「ああ、よかった!もう何年も帰ってきていないじゃないか。あんたが好きなものをたくさん準備して待ってるからね。朔くんは?彼も一緒に帰ってくるのかい?」
寧々は窓の外を猛スピードで流れていく街のネオンを見つめ、静かに目を閉じた。涙が頬を伝って落ちた。彼女は消え入るような、しかし決然とした声で言った。
「……私、一人だけだよ」
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