過去は置いていく!夢と星空が私を待っている第2話
この話は約3055字。当サイトで読める2話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第3話からは公式アプリで読めます。
颯真は私の態度に戸惑い、「俺が汚れるのが嫌なのか?」と勘違いしたらしい。
彼は慌てて「大丈夫だ」と言い、優しく温かいタオルで私の体を拭いてくれた。
私をベッドに横たえ、吐いてしまった床を黙々と片付け始める。
前世も今世も、彼はいつだってこんなふうに気遣いを見せる。
その優しさは、まるで暖かな陽だまりのようだった。
だからこそ、前世の私は深く彼にのめり込んでしまったのだろう。
だが、今世は違う。この程度の優しさに心を奪われるほど私は甘くない。
音が聞こえるようになった今、彼の行動は偽善にしか見えない。
気持ち悪さしか感じないのだ。
私はできるだけ颯真との距離を取ろうとするが、彼は私がまだ具合が悪いのだと思い込み、「病院に行こうか?」と聞いてきた。
私は疲れたように首を横に振り、休みたいとだけ伝える。
彼は「何かあったらすぐ呼んでくれ」と言ってから部屋を出て行った。
彼の背中が見えなくなったその瞬間、私は冷たい目で彼を見つめた。
これでよし。あとは大会の結果を待つだけだ。
結果が届いたら、すぐにここを出て行く。
二度と戻らない。
この汚らわしい人間たちと、汚らわしい出来事は、すべて消えてしまえ。
重い疲労感と激しい感情に押しつぶされるように眠りにつき、次に目を覚ましたときには、外は真っ暗だった。
部屋には明かりがなく、颯真はまだ帰ってきていないようだった。
そんなとき、外の庭から近所の馬場さんの声が聞こえてきた。
「藤原さん、また美遥(みはる)さんを見に来たの?」
それに答える颯真の声も聞こえてくる。
「美遥が今日は具合が悪いからね。俺ひとりじゃ手が回らない。だから綾音に来てもらったんだ」
「藤原さんは本当に親切ねえ!」
「いえいえ、美遥さんのお父さんにはいろいろお世話になってますから、これくらい当然です」
軽い挨拶を交わすと、二人は庭に入ってきた。
彼らは「私の世話をする」という名目でここに住みついているが、実際には一度も私の様子を見に来たことがない。
父は私が結婚後も住みやすいようにと、元の家を売り、小さな家を買い足してこの小さな庭付きの家を整えてくれた。
自分は寮に移ることで私たちのためにスペースを確保してくれたのだ。
この家は二部屋で、颯真と私は別々の部屋を使っている。
彼らが家に入る音が聞こえた後、すぐに施錠する音がした。
そして、颯真の部屋に急ぐ二人の足音が続いた。
そのあとの動きは、静まり返った家の中ではっきりと聞こえてしまう。
どれだけ急いでいるのか、呆れるほどだった。
颯真という男が、どうしてこんなに下劣になれるのか、私には理解できなかった。
表では誠実そうに装いながら、裏でこんなことをしていて疲れないのだろうか?
しばらくして、颯真の声が聞こえてきた。
「もう少し静かに......美遥には聞こえないけど、隣の家にはまだ人が住んでいるんだぞ」
それを聞いた綾音が、小声で答える。
しばらくすると、二人はようやく動きを止めた。
「綾音、こうして隠れてしか迎えられないのは、本当に申し訳ない」
颯真の甘い声が聞こえてきた。
「いいのよ。あなたの心が私にある限り、何も気にしないわ」
気にしない?
あの前世で、あの親子が私の命を奪おうとしたのに?
「それに、美遥がいなかったら、私たちがこんなに良い家に住めるわけがないじゃない」
「もうすぐ市の劇団で研修があるの。それに参加する枠、取ってもらえないかな?」
「そうだな。頼んでみるよ。工場長の娘婿なんだから、断られるはずがない」
「ええ、今のうちに美遥のお父さんを利用して、全部手に入れておきましょう。彼がいなくなったら、家も財産も全部私たちのものよ」
綾音の声には、隠しきれない貪欲と期待がにじみ出ている。
「綾音、苦労をかけるけど、彼女が持っているものはお前も全部持つ。彼女にないものも、お前には必ず手に入れさせるよ」
颯真が優しく彼女を慰める声が聞こえる。
この瞬間、私の中にあった疑問がすべて答えを見つけた。
道理で、前世で私たちが結婚して間もなく、綾音が劇団に入団したわけだ。その後、彼女はドラマにも出演し、いつしか有名な女優になっていた。
颯真も高級技術者となり、二人は名実ともに社会的成功を収めた。
私たちの金婚記念日で、二人は洗練された服を着こなし、堂々とした姿で立っていた。まるで完璧な夫婦のように見えたのを覚えている。
一方の私はというと、年老いてみすぼらしく、新しい服を着ても家事に疲れた主婦の雰囲気を隠せなかった。
まるで家政婦のようだった。
なんという綿密な計算だったのだろう。
ただ、前世の私はあまりにも愚かだった。これほど明白な矛盾を見抜けなかったのだから。
いや、むしろ前世では何度も真実に近づいていた。
一度など、真実は目の前にあったはずだ。
あれは、息子がまだ五歳だったときのこと。帰宅するはずの時間になっても姿が見えず、私は学校に駆けつけた。
しかし、誰も彼を見た者はいなかった。
子どもがいなくなったと思い込み、颯真や近所の人に助けを求め、彼を探しまわった。
私は長らく耳が聞こえず、話す機会も減ったせいで、言葉をうまく発せられなくなっていた。
そのため、子どもを探すことは想像以上に困難だった。
その日、雨の中で私は雨に濡れた段ボールを持ちながら、一軒一軒と扉を叩いて回った。
そして、ようやく綾音の家にたどり着いたとき――
そこには、颯真と息子が、綾音と一緒に食卓を囲んでいた。
彼らは楽しそうに談笑し、まるで本当の家族のように見えた。
一方の私は、泥まみれでボロボロ、靴を失くしていたことすら気づかなかった。
雨に打たれてずぶ濡れの惨めな姿で、ただそこに立ち尽くしていた。
当時の私は、失った息子を見つけた喜びでいっぱいだった。
しかし、息子の顔に浮かぶ苛立ちと、私を拒む小さな手には気づかなかった。
それに、颯真の目に一瞬だけ現れた厄介そうな表情や、綾音の目に浮かぶ侮蔑と嘲笑も。
すべてを見ていたはずなのに、当時の私は彼らが私を「耳が聞こえない役立たず」だと思っているだけだと考えていた。
裏切られているとは、思いもしなかったのだ。
その後、颯真は息子を連れて私と一緒に家に戻った。
彼は「家に探しに行ったけどいなかったから、メモを残しておいた」と説明した。
だが、そのメモはどこにも見つからなかった。
おそらく風でどこかへ飛ばされてしまったのだろう。
当時の私にとっては、それは大したことではなかった。
けれど、もしあのとき真実に気づいていれば、私は惨めな最期を迎えずに済んだのではないか――
そう考えた瞬間、前世の金婚記念日の出来事が脳裏をよぎる。
私は思い出した。
あの日、私を階段から突き落としたのは、息子だったのだ。
息子の険しい顔、迷いのないその手――
その光景を思い出すだけで、私は感情を抑えられなくなった。
不意に手が滑り、ベッド脇の椅子に置いてあったマグカップを倒してしまった。
その音を聞きつけ、隣の部屋で慌てる物音が聞こえる。
颯真が急いで服を整えながら部屋に入ってきた。
「パチッ」と、彼が電気のスイッチを引っ張り、薄暗い照明が部屋を照らす。
ベッドに腰掛け、無表情の私を見て、颯真は近づき私の額に手を当てた。
熱がないことを確認すると、紙とペンを取り出し、「何かあったのか?」と書いて見せる。
私は唇を噛みしめ、両手をぎゅっと握りしめた。
彼らは、私の命までも計算に入れていたのだ。
これ以上、耐え続ける私こそが馬鹿だったのだ。
私は立ち上がり、思い切り腕を振り上げると――
「バチンッ!」
そのまま颯真の顔に平手打ちをお見舞いした。
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