和紙文過去は置いていく!夢と星空が私を待っている · 第1話設定≡

過去は置いていく!夢と星空が私を待っている第1話

この話は約2898字。当サイトでは第1〜2話を試し読みできます。

私と夫の結婚生活は五十年、いつも仲睦まじかった。

でも、金婚記念日のその日、私は誰かに突き落とされた。

意識が朦朧とする中、若い頃に夫を助けるために失った聴力が戻ってきたのを感じた。

耳に飛び込んできたのは、夫が息子に言った言葉だった。

「お前の手を汚すべきじゃなかったな」

「父さん、いつまであの人を我慢するつもり?藤原さんが待てる時間、もう残ってないよ」

夫は深くため息をついた。

その直後、誰かが私の鼻に付けられた酸素チューブを外した。

私は深い闇の中へと沈んでいった――

次に目を覚ましたとき、そこは80年代。まだ夫と結婚する前の頃だった。

だけど、ひとつだけ違うことがある。今度は、音が聞こえる。

* * *

部屋には80年代特有の古びた木製のタンスと、その上に置かれた白黒テレビ。

外の庭からは、懐かしいラジオの放送が流れている。

間違いない、私は戻ってきたのだ。

机の上には、描き上げたばかりでインクが乾ききっていない絵「星空」。

それを見つめるうちに、自然と涙がこぼれていた。

――この人生は、私が自分で選ぶ。

「星空」を丁寧に包んでいると、隣の部屋から物音がした。

聞こえてきたのは、桜井颯真(さくらい そうま)と藤原綾音(ふじわら あやね)の声だった。

この音......まさか――

しばらく布が擦れるような音がしてから、颯真が抑えた声で言った。

「もう少し静かに......」

しかし、綾音はまったく意に介さず、わざと大きな声で答える。

「何を心配してるの?あの人は耳が聞こえないんだから!私がどれだけ叫んだって、気づきっこないわよ!」

そう言うと、彼女はわざと数回声をあげた。

前世、死ぬ間際に朧げに聞いた綾音の名前。

でも、自分の耳ではっきり聞くのは初めてだった。

まるで雷に打たれたような衝撃だった。聞こえるというのも、時には残酷だ。

過去の甘く温かい記憶が、ガラスのように砕け散る。破片は心に突き刺さり、胸が締めつけられる。

思い返せば、もともと私の結婚相手は颯真ではなかった。

だけど、あの事故が人生を狂わせた。

颯真は当時珍しい大学生で、背が高くてハンサムだった。大学卒業後に工場へ技術者として配属されると、たちまち女性たちの注目を浴びた。

その頃、私は絵が得意で、工場の宣伝係をしていた。

颯真とは関わることがないと思っていたけど、ある日、彼がやってきて「広報用の掲示板を描いてほしい」と頼まれた。

そのときだった。彼と掲示板を描きに行った先で、古い木が突然倒れかけてきた。

私は彼を突き飛ばして助けたが、枯れ木の破片が私の頭を打ち、聴力を失った。

そのせいで決まっていた婚約話は白紙に戻り、すべてが変わった。

それでも颯真は、「自分が責任を取る」と言ってくれた。そのときの私は、彼に心から感謝していた。

でも、前世で彼と生涯を共にした末、死の間際にようやく気づいた。彼は綾音と裏で関係を持っていたのだと。

それも、こんなにも早い段階からだったなんて。

道理で、息子が小さい頃から綾音の家ばかりに行きたがったわけだ。

当時、私は綾音が息子をよく面倒見てくれることに感謝していたのに。

思い出すのは、死の直前に聞いたあの会話――

きっと、あの子も私を裏切っていたんだろう。

でも、今世は違う。あの子が生まれることすらない。

私は絵を抱えて、迷わず部屋を出た。

出る直前、隣の部屋からまだあの二人の声が聞こえてくる。

私が動いたことなど、彼らにはどうでもいいらしい。

その方がいい。これ以上、あの二人に気を遣う気もない。

聞こえないフリをしながら、私は郵便局へ向かい、絵を青年美術大賞に送った。

これが、私が人生を変える唯一のチャンス。

この絵が、重い扉を打ち破り、私の未来を輝かせる星となることを願ってやまない。

絵筆と勇気で、新たな人生の扉を叩くのだ。

実は、絵を描くのは子どもの頃から大好きだった。

その才能のおかげで、工場では例外的に宣伝係に抜擢されたほどだ。

本来なら、もっと明るい未来が待っているはずだった。

でも、あの事故のせいで、私の世界は静寂に閉ざされた。

それ以来、私はすっかり無口になった。

そんな私を引き戻し、心の中に光を灯してくれたのが、颯真の「責任を取る」という言葉だった。

そして生まれたのが、この「星空」だった。

前世では、この絵を描き上げたあと、真っ先に颯真に見せに行った。

でも彼は大して興味を示さず、ただ淡々と頷いただけだった。

結婚後、この絵をリビングに飾ろうと思ったけれど、颯真は「いらない」と手を振った。

結局、この絵は台所のテーブルの隅を支えるための板として使われ、

やがてカビと油汚れで、元の美しさがわからなくなった。

長い結婚生活の中、一度だけ美術界の大家がこの絵を目にしたことがある。

彼は日付を見て惜しんでくれた。

「もしこの絵が当時の青年美術大賞に出品されていたら、確実に賞を取っただろう」

なんと、その人は当時の審査員だったというのだ。

でも私は、家事に追われる変形した手で、もう絵筆を持つことすらできなかった。

若い頃の夢も、家事や育児の忙しさに埋もれてしまった。

今、私は心から感謝している。

天が与えてくれたこのチャンスを。

前世の後悔も過ちも、すべてやり直すことができる。

今ならまだ、取り返しがつくのだ。

工場に戻り、寮に帰った。

この寮は、颯真との結婚を前提に特別に割り当てられたものだった。

部屋のドアを開けた瞬間、ちょうど颯真と綾音が中から出てきた。

二人とも服装は整っているが、髪は少し乱れ、顔には赤みが差し、首筋には微かな赤い跡。

普段の颯真の冷静な印象や、綾音の上品な雰囲気を知る人が見たら、

まさかこの二人が不倫しているなどとは思わないだろう。

颯真は私を見ると軽く頷き、道を開けた。

綾音も微笑んで挨拶をしてきたが、その口からは「この役立たず」と毒のある言葉が漏れる。

私は感情を抑え、いつも通りの無表情で、何も聞こえていないふりをして頷き、部屋に入った。

部屋の中は、まだ不快な匂いが漂っている。

その瞬間、吐き気が込み上げ、たまらず声を上げて戻してしまった。

「まったく、運が悪い......」と、颯真が舌打ちしながら綾音を部屋から追い出し、自分は私の後始末に入った。

綾音は去り際に、振り返りざまこう吐き捨てる。

「役立たず、どうせなら吐いて死んじまえばいいのに!」

以前の私は、彼女とそこそこ仲が良いと思っていた。

綾音は、亡くなった父の戦友の娘だ。高校卒業後、なかなか仕事が見つからず、私の父に頼み込んで工場の放送係の職を得た。

私が耳を悪くしたときも、彼女は「世話をしてくれる」と言って、わざわざ顔を出してくれていた。

そのときの私は、彼女が本当に親切な人だと信じていた。

でも今となっては、彼女がそうしたのは颯真に近づくためだったのだと気づいた。

きっと前世でも、私が聞こえないのをいいことに、こんな毒のある言葉をたくさん浴びせていたに違いない。

私は両手でお腹を抱え、体を震わせて嗚咽を漏らしながら泣いた。

涙は止まることなく流れ落ち、まるで前世で溜め込んだ全ての苦しみを吐き出すかのようだった。

颯真が私を気遣うように近づいてきたが、私は彼を一気に突き飛ばした。

汚い!

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)