遅咲きの夢と、捨てた約束第2話
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同僚が彼女の言葉を聞いて息を呑み、何か言いかけようとした時、医局のドアが開いた。
「俺と離婚したいと?」
透也だ。彼は長い脚で数歩進むと、さくらの同僚が持っていた手術同意書をひったくり、サラサラと署名して、バンと音を立てて机の上に放り投げた。
「俺はお前と離婚するつもりはない」
透也は言葉を区切った。
「俺とお前が離婚する必要もない」
さくらの同僚はすぐに空気を読んで医局を出て行った。
彼女は笑った。笑えば笑うほど傷口が開いて痛むのに、心の痛みに比べればどうという事ない気がした。
「あかりは……俺の秘書だ。ある時の接待で、俺が飲みすぎて意図せずにやってしまった。
俺は子供を持たない主義だが、あかりが既に妊娠している以上、子供を殺す凶悪犯の様な事はできない」
「透也、あなた自分で言っていること……本当に信じてるの?」
透也が言い終わる前に、さくらが唐突に口を開いた。
「私、さっきあなたが彼女を愛する人だって言うのを聞いたわ」
さくらは目を据えて透也を見つめ、彼の答えを待った。
でも透也は相変わらず冷厳な表情で、わずかに眉をひそめながら、ポケットから既に数字が書かれた小切手を取り出した。
「お前への補償だ」
さくらは謝罪さえもらえなかった。
「離婚という二文字を二度と口にしないでほしい」
彼が小切手を置いた瞬間、医局の緊急通報ベルが鳴った。
「全医療スタッフに連絡、VIP1号室の桐谷あかり様が頻脈傾向にあります。直ちに会診に集合してください」
透也は聞いた瞬間に慌ただしく医局を出て行った。
さくらは震えながらベッドから降り、無理をして机の上の小切手を見た。
一億円。
彼女は苦笑した。この怪我、本当に割に合う怪我ね。
さくらは携帯を開き、アプリで自分の身分情報の抹消手続きを申請した。
続いて、彼女はパソコンの前に座り、病院のカルテシステムを開いて、顔面手術の感染による死亡のカルテを作成した。時間は十五日後に設定し、立会人欄には透也の名前を書いた。ちょうど空白の手術同意書など一式が揃っている。
その時が来れば、彼女の「肉体」は死亡し、戸籍も身分も抹消され、婚姻関係は自動的に消滅する。
……
この一週間、透也は一度も彼女の前に現れなかった。にも関わらず、常に彼の気配が感じられた。
なぜなら、あかりも一週間入院していたからだ。
この一週間、彼は病院の全医師に毎日あかりの会診を要求し、休みは許されなかった。
この一週間、病院中の同僚が、知っている人も知らない人も、さくらに会うたびに指を差してひそひそ話をした。
あかりが退院した日、さくらが退勤する時、透也が地下駐車場で待っていた。
彼はマイバッハのクーペを彼女の傍に停め、窓を下げて乗るよう促した。
「今日本邸で用事がある。母さんがお前を夕食に呼んでいる」
さくらは少し考えたが、結局承諾した。透也が千の過ち万の過ちを犯しても、彼の両親に罪はない。
「さくら、来たのね。早く入って」
透也の母親は既に玄関で待っている。今日、本邸は隅々まで飾り付けられ、玄関の装飾まで新しくなっている。お正月にはまだ遠いのに。
彼の母親は親しげに彼女の手を引いて中に入り、そのまま食卓に座らせ、すぐに使用人に料理を並べるよう命じた。
「お母様、今はまだ夕食には早いですよね……いつも遅めに召し上がるのに」
透也の母親は一瞬口をつぐんだが、すぐに気を取り直すように言う。
「今日は透也が後で会社に戻って残業するから、早めに食べるのよ。
そうだわ!最近仕事で疲れているでしょう。特別にブレスレットを買ってきたの」
そう言いながら、既に用意していた宝石のブレスレットを取り出して彼女の手に押し付けた。
透也は食卓で黙々と食事をしていた。相変わらず以前のように、彼女のために料理を取り分け、スープをよそった。彼女が贈り物を辞退する時には小声で受け取るよう説得した。
その食事は、透也が会社に戻らなければならないという理由で三十分もかからずに終わった。
さくらが彼の車に乗り込んだ時、何とも言えない違和感を覚えた。
「今日は用事があるって言ってたけど、何の用事?」
透也は前の席に座り、顔も上げずに「大した用事じゃない」と素っ気なく答えた。
二人の別邸の前で車を降りた時、さくらはさっき透也の母がくれたブレスレットを忘れてしまったことに気づいた。彼女は何かに導かれるようにタクシーを呼んで本邸に戻った。
夜の帳に包まれた本邸は古風な雰囲気を漂わせている。彼女は一歩一歩大邸宅に近づき、ドアを押そうとした時、中からあかりの声が聞こえてきた。
「お母様、アクセサリー一式を下さって、本当にありがとうございます。
必ず無事にこの子を産んで、橘家のために跡継ぎを残します」
「透也に子供を持つ気にさせてくれたなんて、うちの橘家にとっては一番の功労者よ!
さくらさんなんて、四年も何の音沙汰もないんだもの」
あかりに応えるのは、透也の母の満面の笑みの声だ。
さくらは窓辺からはっきりと見えた。三人は再び同じ食卓に座り、さらに豪華な料理を食べている。
違うのは、透也が時々彼女の飲み物の温度を確かめたり、肩を揉んであげたりしていることだ。あかりはくすぐったそうな声を上げて彼の腕に身を寄せて甘えている。
さっきさくらが忘れたブレスレットは、無造作に玄関に放置されている。
さくらの心臓は穴だらけに突き刺されたような感覚を覚えた。これは何?補償?慰め?自分は……決められた手順を踏むためだけの脇役で、あかりこそが主役なのだ。
自分は、橘家の部外者なのだ。
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