遅すぎた鍵を置いて第3話
この話は約2066字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
先ほどまで、手の中には1本の鍵が握られていた。
12年間、ずっと待ち望んでいた鍵だ。
けれど、世の中には、たとえ鍵を開けることができても、決して中には入れてもらえない扉が存在するのだ。
風呂から上がると、母はまだ私を莉子の部屋で寝かせようと画策していた。
しかし莉子はベッドの上に座り込んだまま、頑なに口を閉ざしている。
母はしばらく莉子を見ていたが、やがて私に渡すつもりだった薄手のタオルケットを、諦めたようにリビングのソファの上に置いた。
「夜はエアコンの温度を下げすぎないようにね。風邪をひくから。
明日は朝早くに出るから起こさないわ。ゆっくり寝てなさい」
私は黙って頷いた。
母は何かを思い出したように、ローテーブルを指さした。
「家の鍵はちゃんと保管しておいてね。私たちがいない間に宅配便が来たら、代わりに受け取っておいてちょうだい。
ベランダの鉢植えには2日に1回水をやって。ゴミもこまめに捨てるのよ、夏場は匂いが出やすいからね」
父が顔を上げる。
「もし管理会社が点検に来ても、すぐにはドアを開けず、まずは私たちに電話しなさい」
慎が言った。
「俺の部屋は鍵かけておくから、絶対に入るなよ」
莉子もすかさず続く。
「私の机の上のものにも触らないで。特にアクスタには絶対」
同じように受験が終わった夏、両親は慎を連れて南の島のリゾートへ旅行に行った。
莉子が高校受験を終えた時は、有名なテーマパークへ連れて行った。
そして私の番になって、彼らが私に与えたのは、次から次へと続く留守番の指示と無機質な注意書きだけだった。
私が一つ一つ頷くのを見て、母は慎と莉子に早く寝るよう促し始めた。
「早く歯を磨いてきなさい。明日起きられなくなるわよ」
父はスマートフォンをいじりながら言った。
「最後に一つ、ホテルの情報を家族のLINEグループに送ったから、お前たちも確認しておきなさい」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、リビングに立て続けに通知音が鳴り響いた。
母のスマホ。
慎のスマホ。
莉子のスマホ。
私のスマホだけが、静寂を保っていた。
父はふと違和感を覚えたように顔を上げ、私を見た。
「紬はまだグループに入ってなかったか?」
母がハッとする。
「そうみたいね」
「じゃあ、後で招待しておいてくれ」
私は静かに言った。
「いいよ、必要ない」
父はよく聞こえなかったようだ。
「なんだって?」
私がもう一度口を開く前に、慎が声を遮った。
「父さん、俺のゲーム機、そっちにない?」
父はすぐに立ち上がった。
「どれどれ、父さんのカバンか、母さんのカバンの中に入ってるはずだ」
そう言って主寝室に向かい、私が先ほど何と言ったのかを深く追求することはなかった。
リビングの明かりはすぐに消された。
3つの部屋のドアも、次々と閉ざされた。
私はソファに横たわり、真っ暗な天井を見つめながら、自分が今何を考えているのかすら分からなかった。
スマホがふいに震えた。
祖母からの電話だった。
「紬かい、もう寝たかい?」
「まだだよ」
「家には慣れたかい?お母さんたち、美味しいものを作ってくれたかい?」
私は喉の奥が熱く詰まるのを感じながら、帰省して最初の食事を思い出した。
母は莉子が好きなハンバーグを作り、慎が好きなエビフライを作った。
父が好きなパクチーのサラダも添えられていた。
でも、私がパクチーのアレルギーだということは、誰1人として覚えていなかった。
私は何度か深呼吸をして、声を絞り出した。
「うん、作ってくれたよ」
祖母は何かを察したように少し黙り込み、優しく尋ねてきた。
「紬、もしかして居心地が悪いんじゃないのかい?」
「そんなことないよ」
「紬、無理してないで帰っておいで。おじいちゃんが今日、スイカを買ってきて、冷やしてあるんだよ。
あんたの部屋も掃除しておいたし、布団も干したから、お日様のいい匂いがするよ」
その瞬間、私は泣き崩れそうになった。
両親の家には、私の居場所はない。
でも、祖父母の家には、私の帰る部屋がある。
リビングに一時的にしつらえられた寝床でもなく、妹が嫌々ながら明け渡してくれた片隅でもない。
私だけの部屋。
そこには私のベッドがあり、私の勉強机があり、壁には私がもらった賞状が誇らしげに貼られている。
電話の向こうから、祖父が大声を出すのが聞こえた。
「いつ帰ってくるんだって聞け!いつだって駅まで迎えに行ってやるからな!」
私は必死に唇を噛み締め、嗚咽を漏らさないようにした。
祖母がまた言う。
「紬、そっちで何かあったら、我慢しないでちゃんと言うんだよ。
自分の家で言いたいことも言えないなんて、そんなのおかしいんだから」
電話を切り、スマホの画面が暗くなると、リビングは再び闇に包まれた。
3つの部屋のドアの隙間からは、温かな光と家族の笑い声が漏れ出している。
祖母の言う通りだ。自分の家なら、言えないことなんてないはずだ。
ただ、ここは私の家ではない。それだけのこと。
私は頬を伝う涙を乱暴に拭い、乗換案内のアプリを開いた。
明日の朝8時、祖父母の住む田舎へ向かう特急列車がある。
私は乗客情報を入力し、チケットの購入ボタンを押した。
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