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遅すぎた鍵を置いて第1話

この話は約2229字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

大学受験が終わったあの日。私、結城紬(ゆうき つむぎ)はキャリーケースを引きずり、父の結城弘之(ゆうき ひろゆき)と母の結城恵美(ゆうき えみ)が暮らす都会のマンションへ再び足を運んだ。

ドアを開けた母は、ただ一言だけこう口にした。

「試験も終わったんだし、しばらく家でゆっくりしていくといいわ」

あくまで「しばらく」であり、「ずっと」ではないのだ。

結城家には3人の子供がいる。しかし、両親と一緒に暮らしているのは兄と妹だけ。私1人だけが、幼い頃から祖父母の結城泰造(ゆうき たいぞう)と結城小百合(ゆうき さゆり)の元に預けられて育った。

兄には専用の書斎があり、妹には自分の部屋がある。リビングのソファを寝床にしているのは、私だけだ。

歯ブラシも、スリッパも、タオルでさえも客用の使い捨て。当然、家の鍵すら与えられていない。

母からは「めったに帰ってこないんだから、鍵なんて必要ないでしょ?」と吐き捨てられている。

だからここへ来るたび、私は招かれざる客のようにドアの前に立ち、誰かが内側から開けてくれるのを待つしかなかった。

ところが今回、彼らはようやく私に1本の鍵を渡してきた。

兄の結城慎(ゆうき まこと)が私の手のひらに鍵を押し付け、笑いながらこう言ったのだ。

「俺たち旅行に行ってくるからさ、その間ゆっくり留守番でもしててよ」

リビングのローテーブルには、4枚の航空券が几帳面に並べられていた。

父、母、兄、妹の分。そこに私の分はない。

12年間ずっと待ち望んでいた鍵を見つめているうち、ふと自嘲気味な笑みがこぼれた。

そうか、これは「家族の輪」に入るための鍵ではない。

私にここから立ち去るよう促す、残酷な合図なのだ。

* * *

「ぼーっとしてどうしたんだ?」

慎が、私の目の前で手をひらひらと振った。

「鍵、なくすなよ。明日の朝早くに出発するから、締め出されるぞ」

そう言う慎の脇を抜け、妹の結城莉子(ゆうき りこ)が部屋から出てきた。その腕には何着ものワンピースが抱えられている。

「お母さん、この青いワンピースにしようかな?写真撮る時、顔色悪く見えないかな?」

母が歩み寄る。

「そんなことないわよ。莉子は青が一番似合うんだから。海辺で映えるし、その白いのも持っていきなさい」

「でも、白は汚れやすいし」

「汚れたらお母さんが洗ってあげるから平気よ」

母はあまりにも自然にそう言い放った。

娘の服が汚れたなら、母親が洗ってやるのが当然だとでも言うように。

掌の鍵を握りしめながら、私はふと遠い昔の記憶を呼び起こしていた。

制服の袖口を汚してしまった時のことだ。祖母に苦労をかけたくなくて、ひたすらゴシゴシと生地をもみ洗いした。

冬の水道水は骨に染みるほど冷たく、手を入れた途端に指先の感覚が消え失せた。

それでも手を止めるわけにはいかない。

翌日もその制服を着て登校しなければならなかったからだ。

やがて手にはひどい霜焼けができ、治ってはまたひび割れる日々を繰り返した。

今でも手の甲には、うっすらとその痛々しい跡が残っている。

一方、父はスマートフォンで旅行のスケジュールを確認することに夢中だ。

「明日の朝は6時半に家を出るぞ。7時半に空港に着いて、10時の便だ。

現地に着いたらまずホテルに荷物を置いて、午後は海へ行く。夜は海鮮料理だな」

慎が横から画面を覗き込む。

「美味しいものは控えめにしておけよ。莉子はただでさえぽっちゃりしてんだから」

莉子がすかさず文句を言う。

「お母さん、お兄ちゃんたらまた私のことバカにしてる!」

母が笑ってとりなす。

「いざとなったら、お兄ちゃんはホテルの外に閉め出しましょうね」

家族は海や夕日、美食の話題で嬉々として盛り上がっている。

誰も私に行きたいかどうかなんて聞いてこない。

そもそも、私を連れて行くという選択肢など誰の頭にもないのだ。

私はその場に立ったまま、片付け忘れられた古びた荷物のように放置されていた。

ずいぶん時間が経ってから、母がようやく私の存在を思い出したように振り返った。

「そういえば紬、留守の間、食事はどうするの?

冷蔵庫に野菜もあるし、冷凍の餃子も入ってるわ。自炊が面倒なら、デリバリーでも頼んでいいからね」

私は「なんでもいいよ」と短く答えた。

母は安堵したように息を吐く。

「それならよかった。小さい頃からおじいちゃんとおばあちゃんに育てられたんだし、自分のことくらい自分でできるわよね」

私は黙って頷いた。

確かに、私は自分の身の回りの世話をするのがとても得意だ。

幼い頃に熱を出した時は、自分で濡れタオルを作って額に乗せた。

雨の日に誰も迎えに来てくれなかった時は、ランドセルを傘代わりにして家まで走った。

祖母が膝を痛めた年は、料理の腕も鍛えられた。

私はずっと、自分のことは自分で何でもこなしてきた。

だから両親は安心しきっているのだ。

私がつい先日大学受験を終えたばかりの高校生だという事実すら忘れるほどに。

父が時計に目をやった。

「もういい時間だな。

紬、先にお風呂に入ってきなさい。パジャマは後でお母さんに出してもらうから」

「ううん、自分で持ってきたから大丈夫」

私の荷物はまだ玄関に置かれたままだ。

使い古されたキャンバス地のトートバッグ。一度ファスナーが壊れた際、祖母が黒い糸で丁寧に繕ってくれたものだ。

トートバッグから着替えを取り出し、脱衣所へ入る。

壁には4枚のバスタオルが掛かっていた。

グレーは、父の。ベージュは、母の。ネイビーは、慎の。ピンクは、莉子の。

私のものは、ない。

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