豪雨の結婚式の日、私は家族を捨てた第2話
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誰かに指を踏まれた瞬間、痛みで意識が遠のきそうになった。
停電した披露宴会場は、あっという間に混乱に包まれた。
装飾が床に落ち、砕けた破片が私のふくらはぎに刺さっている。
スマホは、まだ耳に当たったままだった。
電話の向こうで、母がようやく私の荒い息に気づいた。
それでも母が最初に口にしたのはやっぱりこれだった。
「美幸、望はそばにいるの?浩二さんに電話を代わって」
私は水たまりに倒れたまま、人に踏まれた指を動かすこともできなかった。
「お母さん、私、転んだの」
電話の向こうが、一瞬静まった。
そして母は、声を落として尋ねた。
「どこをケガしたの?」
喉の奥が熱くなった。
27年間生きてきて、母がこんなふうに私を気遣ったことなんて、ほとんどなかった。
けれど、私が答えるより先に、電話の向こうから望のアシスタントの泣き声が聞こえた。
「すみません。望さんがまだ戻ってきません。休憩はもう終わっているのに、電話にも出なくて……何かあったんじゃないかって、みんな心配しています」
その瞬間、母の迷いは跡形もなく消えた。
「転んだくらいで大げさにしないの。自分で立ちなさい。今は望の無事を確認することが先よ。あの子は喘息持ちなんだから、発作でも起こしたら大変なの」
私は歯を食いしばって、体を起こした。
けれど足に力が入らず、また割れたガラスの上に膝をついた。
鋭い痛みが骨の奥まで突き刺さった。
周りで誰かが叫んだ。
「新婦さんが、まだ中にいるぞ!」
そのとき、入口のほうから浩二の声が聞こえた。
「美幸!動くな、今すぐ――」
彼が言い終える前に、望が涙声で咳き込みながら叫ぶ。
「浩二さん、息が……苦しい……」
浩二の足音が止まった。ほんの1秒だけ。
次の瞬間には、望を抱き上げ、張りつめた声で言った。
「先に車へ連れていく」
私は小さく笑った。電話の向こうで、母が苛立ったように言う。
「何がおかしいの?」
「別に」
「美幸、こんなときに意地を張らないで。望はあなたのせいで初ライフコマースを中断することになったのよ。私も戻って対応しなきゃならないんだから」
私は、人に踏まれて紫色に変わった自分の指を見つめた。
「だから?」
「だから、今すぐ会場に戻って、佐伯家の皆さんに事情を説明するの。大雨の影響で会場設備にトラブルが起きただけで、婚約を破棄したわけじゃないって」
母はそこで一度言葉を切り、付け加えた。
「望を巻き込むようなことだけはしないで」
その一言が、針のように耳を貫き、胸の奥へ突き刺さった。
痛みはまだ続いている。
それなのに、私はもう何も言えなかった。
このままここで動けなくなっても、それでもいいのかもしれない。
そう思った、そのときだった。人の波を押し分けるように誰かが入ってきた。
黒いレインコートを着た男性が、まっすぐ私のもとへ駆け寄ってきた。
しばらく見つめて、ようやく長瀬仁(ながせ ひとし)だとわかった。
海洋気候共同プロジェクトの最年少の責任者で、3か月前の審査会で、ただ1人、私をかばって机をたたいてくれた人だった。
彼は私の脚から流れる血を見た瞬間、表情を変えた。
「美幸、立てるか?」
私は首を横に振った。
彼は何も聞かなかった。黙ってレインコートを脱いで私を包むと、そのまま抱き上げた。
私のそばから聞こえた男性の声に気づき、電話の向こうの母は、とたんに警戒したような声を上げる。
「美幸、誰と一緒にいるの?」
仁は私を抱えたまま、出口へ向かう。
私はスマホを耳から離した。
それでも母の鋭い声は、はっきりと聞こえてきた。
「美幸、今日のあなたの立場を忘れないで。結婚式の最中に見知らぬ男性と一緒に出ていったら、望がどんな目で見られると思ってるの!」
私は薄暗い廊下の先にある出口を見つめた。
豪雨の中で、そこだけが唯一、光の差す場所のようだった。
私は静かに口を開く。
「お母さん。さっき私が中に閉じ込められていたとき、お母さんは望のことを3回も聞いたよね。でも、私には一度も『痛くない?』って聞いてくれなかった」
電話の向こうが静まり返る。
けれど母が返したのは、低く抑えた声だった。
「今になって私を責めるつもり?」
仁の腕に、少し力がこもった。
私は目を閉じた。
「違う。知らせているだけ。この結婚は、もうやめる」
そう言って、私は電話を切った。
ホテルの前では、救急車と消防車の赤い灯が雨の中で交錯していた。
望は浩二のジャケットを肩に掛けてもらい、彼の腕の中で泣いている。
一方の私は、全身ずぶぬれで、脚は血に染まり、この結婚式でいちばん惨めな姿をさらしていた。
そのとき、浩二が私に気づいた。
彼の視線は、仁が私を抱く腕へと向かい、顔色が変わる。
「そいつは誰なんだ?美幸、今すぐそいつから離れろ」
仁は相手にしなかった。
浩二は駆け寄ると、車のドアを押さえ、張りつめた声で言った。
「美幸、こんなことで意地を張るな。今そいつと行ったら、今日のことは本当に取り返しがつかなくなるぞ」
私は仁の腕にもたれたまま、痛みで息をするのもつらかった。
救急車のドアが、ゆっくり閉まる。
激しい雨音も、誰かの叫び声も、血の気を失った浩二の顔も、すべてドアの向こうへ閉ざされた。
私は車窓にもたれ、もう耐えきれずに、涙を静かにこぼした。
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