豪雨の結婚式の日、私は家族を捨てた第3話
この話は約2261字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
病院の救急外来。
仁は私を処置室の前まで運んでくれたが、看護師に止められた。
「ご家族以外は入れません。先に受付を済ませてください。傷を縫いますので」
彼は眉をひそめて私を一瞥すると、びしょ濡れの黒いレインコートを私のそばに置いた。
「美幸、あの人たちから電話が来ても出ないで。すぐ戻る」
私はうなずいた。
けれど、仁が戻ってくるより早く、電話に着信があった。
麻酔を打ち終えたばかりのころ、枕元に置いたスマホが何度も震え始めた。
十数件の不在着信のあと、病室のドアが勢いよく開く。
母が立っていた。
その後ろには、浩二と浩二の母、それから目を真っ赤にした望がいた。
母の視線は、真っ先に私のそばに置かれた黒いレインコートへ向かった。
その表情が一瞬で冷え切る。
「あの男は?」
私が口を開く前に、浩二の母が一束の写真をベッドへ叩きつけた。
写っていたのは、仁が私を抱きかかえて救急車へ運ぶ場面だった。
激しい雨と乱れた照明のせいで、まるで2人で駆け落ちした瞬間を撮ったような構図になっている。
浩二の母は、声を荒らげた。
「佐伯家にも世間体というものがあります。桐谷家のお嬢さんの不始末を、こちらがかぶる筋合いはありません。今日のことは、きちんと説明してもらいます」
母は1枚の写真を拾い上げた。
しばらく見つめると、それを私の前へ置く。
「説明して」
傷を縫ったばかりで、麻酔もまだ完全には切れていない。
体を起こすだけでもやっとだった。
「この人は、私を助けてくれただけ」
「誰が彼を呼んだの?」
私は言葉を失った。
母の顔に浮かんでいたのは、心配ではなかった。侮辱を受けたかのような、冷たく険しい怒りだけだった。
「結婚式にはあれだけ人がいたでしょう。浩二さんも、佐伯家の皆さんも、救急隊もいた。それなのに、どうしてわざわざ赤の他人に抱きかかえられて出てきたの?
今、ネットで望が何て言われているか分かってる?」
私は母を見つめた。
「望が何て言われてるの?」
望は涙をこぼしながら首を振る。
「お姉ちゃん……もういいよ。お願い、やめて……」
浩二がスマホを私の前へ差し出した。
トレンドに表示された見出しが、目に刺さる。
【#桐谷望、姉の結婚式を台無しにした疑惑】
コメント欄には、こんな言葉が並んでいた。
【仮病じゃないの?】
【姉の婚約者を奪った】
【母親まで独占してる】
望は今にも立っていられないほど泣き崩れた。
「お姉ちゃん、私は怖くて、浩二さんにそばにいてもらっただけなのに……どうしてみんな、こんなにひどいこと言うの……?」
母はスマホを取り上げると、冷たく私を見た。
「今すぐSNSに投稿しなさい。浩二さんとは天候の影響で挙式を延期しただけ。望には何の落ち度もない。それから、あの男性はたまたま助けてくれた人だって、きちんと説明するの」
一つひとつ、母は迷いなく指示を並べていく。
私の人生も、私の傷も、私の婚約破棄も。母にとっては、ただ鎮めなければならない炎上でしかなかった。
私は小さく笑った。
「嫌だと言ったら?」
母はバッグから1枚の書類を取り出し、ベッド脇に置いた。
私の勤務先宛ての申入書だった。そこには、私が精神的に不安定な状態にあり、海外派遣の適性を改めて確認してほしいと書かれている。
「言うことを聞かないなら、これをあなたの勤務先に提出するわ。海外派遣に問題がないか、産業医に判断してもらうようにね」
指先から、すっと血の気が引いた。
私は3年かけて、国の海洋気候共同プロジェクトへの参加を目指してきた。
最終審査は、まさに今週だった。
もし母の訴えを理由に「情緒が不安定で、海外派遣には不適格」という記録が残れば、これまで積み重ねてきたものはすべて水の泡になる。
私は母を見つめた。
「私の仕事まで潰すつもり?」
母は少しも目をそらさなかった。
「あなたを守るためよ。今のあなたは感情的になっていて、何が大事か見えていない。落ち着けば、きっと私に感謝する」
感謝。
その言葉を聞いた瞬間、胸の中がぽっかりと空いた。
人を壊しておきながら、どうしてこんなにも自分が正しいと言い切れるのだろう。
浩二は私の青ざめた顔を見ると、ようやく声を和らげた。
「美幸、お母さんの言うとおりにしよう。投稿して。式は改めて挙げられるし、海外派遣だって、また今度挑戦すればいい」
また今度。
みんな、いつだって「また今度」と言って、私が今ほしいものを奪っていく。
そのとき、望が私のベッドの前まで来ると、その場にひざまずき、私の掛け布団の端をつかんだ。
「お姉ちゃん、お願い……助けて。私、本当にこんなにたくさんの人に責められるなんて耐えられないの……」
肩を震わせて泣く望を見て、母は慌ててかがみ込み、その体を支えた。
「望、立ちなさい。床は冷えるでしょう」
そして私を見る母の目だけが、再び命令に変わる。
「美幸、投稿しなさい」
私はスマホを手に取った。
浩二は包帯だらけの私の指を見つめ、小さく喉を鳴らす。何か言いたげにベッドへ半歩近づいた。
けれど母と目が合うと、結局視線を落とし、早く投稿しろと言わんばかりに、私の手の中のスマホを指さした。
「美幸、もうこれ以上、大ごとにしないでくれ」
その瞬間、胸を強く締めつけていたものが、突然切れた気がした。
痛みは限界を越え、最後には何も感じなくなる。
私はSNSを開いた。
全員が見守る中、2行だけの投稿を打ち込んだ。
【結婚式は取りやめます】
【佐伯浩二さんとは、本日をもって一切の関係を絶ちます】
送信。
病室は、死んだように静まり返った。
次の瞬間、母が手を振り上げ、乾いた音とともに私の頬を強く打った。
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